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藩主秋田氏|Web資料館|三春町歴史民俗資料館

印刷用ページを表示する 掲載日:2018年3月14日更新
 

Web資料館

春陽の士

藩主秋田氏

 秋田氏は、安部貞任の子孫とも言いますが、確実なのは、鎌倉時代に津軽十三湊(十三湖と日本海に挟まれた砂洲に発達した港湾都市)を拠点にアイヌや中国と交易し、日の本将軍とも呼ばれた安東(安藤)氏の時代からです。安東氏は、南部氏との戦いに敗れると北海道へ逃れ、その後、子孫のうち下国家が出羽檜山(能代市)を、湊家が秋田湊(秋田市)を拠点とします。そして、下国家の舜季と湊家の嶺松院との間に生まれた愛季が安東家を統一し、当時の権力者織田信長との長い交渉の末、東北の武将としては始めて侍従の官位を獲得します。

檜扇に違い鷲の羽
 「檜扇に違い鷲の羽」
獅子に牡丹
 「獅子に牡丹」

 しかし、愛季が急死し、幼い実季が家督すると家中が乱れ、湊合戦を経て家中をまとめる頃には、既に豊臣秀吉の世となっていました。このため実季は、秀吉の伏見・大坂城建設や朝鮮出兵のために大量の秋田杉を供出させられ、肥前名護屋城へも出陣させられます。そして、関ヶ原の合戦後は、常陸宍戸へ移され、幕府の仕事を息子俊季に任せきりにしたため、伊勢朝熊へ蟄居させられます。代わって宍戸を預かった俊季は、1645年に三春へ移されます。

 さて、秋田氏は安倍あるいは安東が本来の苗字です。なぜ、秋田を名乗るようになったのでしょう。秋田を本拠とした実季は、古代以来、出羽国の支配者の官職「秋田城介」への任官を欲したため、苗字も安東から秋田へ替えます。しかし、任官運動中に、宍戸に転封されたため、一時は伊駒を名乗り、その後、1611年にやっと秋田城介に任じられます。以来、秋田を名乗り、主要な家臣にも秋田姓と季の諱を与えました。このため、三春藩士には秋田姓が多いのです。

 秋田氏の家紋は、「檜扇に違い鷲羽(秋田扇)」紋と「牡丹唐獅子(秋田牡丹)」紋が代表的なものです。

(平田 禎文)

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