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田村氏の築城|Web資料館|三春町歴史民俗資料館

印刷用ページを表示する 掲載日:2018年3月14日更新
 

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三春城の500年

田村氏の築城

 田村氏が三春城を築いたのは、「田村麿旧跡物語」や福聚寺の「田村家記録」から、永正元(1504)年とされていました。しかし、これらの文書は後に編纂されたもので、当時の記録ではありません。また、これ以前の居城についても、守山(郡山市田村町)とするものと八丁目(郡山市日和田町)とするものがあります。そこで今回は、この年代と出自について考えてみましょう。

 まず、田村氏が三春にいたことを示す最も古い史料には、天文4(1535)年に、田村義顕が蒲倉相模守に宛てた土地の安堵状で、「冨春軒三春より」とあり、この時までには確実に三春に移っています。

 次に、三春以前の居城ですが、当時の田村地方は紀州熊野新宮の荘園でした。その中心都市は鎌倉時代以来、守山でした。このため、守山から移ったということが、支配の正当性を示す証拠となったと思われます。これに対して八丁目は、田村氏の菩提寺福聚寺があったと伝えられる場所なので、本来の出自の地とも考えられます。

本丸出土の中国産磁器
 本丸出土の中国産磁器

 以上のように、限られた史料なので、明らかにはできませんが、このほかに、三春城本丸の調査で、興味深い遺物群を発見しました。それは、大量の土器皿と大名権力の象徴のひとつだった梅瓶(徳利に似た瓶)を含む中国製の磁器です。これらは15世紀末頃のもので、土器は安達地方のものとよく似ており、焼けていました。この遺物から、安達地方と関係がある有力者がおり、その城が焼けた後、田村氏が入城したということが想像されます。

 また、田村氏の築城にかかわる話が一つあります。田村義顕が三春に移ったのは1月7日だったので、移る前と、移ってから、さらにその月が閏月だったので、もう1回と、正月(春)を3回祝ったので、「三春」になったというものです。このことからも、田村氏の築城は三春にとっても大事件だったことがわかります。

(平田 禎文)

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