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三春藩二代藩主・秋田盛季|Web資料館|三春町歴史民俗資料館

印刷用ページを表示する 掲載日:2018年3月14日更新

Web資料館

三春藩主秋田氏

三春藩二代藩主・秋田盛季

 秋田盛季(もりすえ)は、元和6(1620)年に常陸国宍戸(現在の茨城県笠間市)で誕生しました。父は秋田俊季(としすえ)、母は上野国高崎(現在の群馬県高崎市)藩主松平信吉の娘です。松平信吉の母は徳川家康の異父妹にあたりますので、盛季の母は父俊季同様、江戸幕府三代将軍家光と又従兄弟にあたります。つまり、盛季は五万石という小さな大名だったにもかかわらず、徳川家と縁の深い人物だったのです。

 盛季が家督相続をしたのは、慶安2(1649)年5月です。このとき、三春五万五千石の内、五千石を弟季久(すえひさ)に分け、この後三春藩は表高五万石となったのです。

 三春藩主としての盛季の治世は、悪化した藩財政の再建に代表されます。秋田から宍戸、宍戸から三春という移転は、藩の財政をかなり悪化させていました。こうした財政問題に対し、収入増加の方策として新田開発を実施したのです。

 盛季の時代に開発された新田は、寛文七(1667)年に二千六百石、延宝2(1674)年に五千六百石にものぼりました。延宝2年の開発は、栗原兵右衛門の尽力で行われていたため、「栗原新田」と呼ばれていました。こうした新田開発が、どの程度三春藩の財政を好転させたかは分かりませんが、盛季藩主時代の出来事として、長く伝えられたのです。

 また、江戸幕府への奉公もよくつとめたようです。慶安4(1651)年、将軍家光が死去すると、翌年には、日光(栃木県)の家光のお墓(大猷院廟といいます)に、水晶を大量に献上しています。なお、この水晶は、大越山で採れたものと記録に残されています。

 こうして財政再建、江戸幕府への奉公に費やされた盛季の人生も、延宝4(1676)年正月13日に終焉を迎えました。亡くなった場所は、父俊季と同じ大坂(現在は大阪)で、享年57歳でした。法号は陽雲院殿龍天蒼松大居士、墓は荒町の高乾院にあります。

(藤井 康)

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