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御一門|Web資料館|三春町歴史民俗資料館

印刷用ページを表示する 掲載日:2018年3月18日更新
 

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春陽の士

御一門

山舘秋田氏の家紋「違い扇」が施された薙刀の覆い
山舘秋田氏の家紋「違い扇」が施された薙刀の覆い

 秋田家の家臣は、仕官した時期ごとに大きく三つに分けられます。慶長7年(1602)に秋田から宍戸へ移される以前に仕官した家は秋田由来、正保2年(1645)に三春に来る前に仕官した家は宍戸由来、その後、仕官した家は三春由来というものです。この区分は、徳川幕府の親藩・譜代・外様という区分と同じようなもので、禄高や役職に直結はしませんが、藩の要職に就く上で一定の基準となりました。藩士の各家についてまとめた「世臣譜」に記載された上中級藩士104家の内訳は、秋田由来が28家、宍戸由来が32家、三春由来が44家です。これだけを見ると、秋田より宍戸、宍戸より三春と召抱えられた家臣が少しずつ増えているように思われますが、こうした古い家の他に新参の下級藩士がいるため、圧倒的に三春由来が多いだろうと思われます。

 さて、秋田由来の藩士の中に、藩主に近く、世臣譜に公族と記された「御一門」と呼ばれた家があります。それは、山舘、中津川、竹鼻、薦土(檜山)の四家で、秋田姓を名乗り、藩の要職を占めていました。藩主秋田(安東)家は、室町時代に安東貞季の長男盛季の系統で檜山城を拠点とした下国家と、二男鹿季の系統で秋田湊城を拠点とした湊家に分かれます。世臣譜によると、山舘家は湊家六代宣季の第二子の家(藩士の系図を集めた「春士秘鑑」では鹿季の四男の家)、中津川家は鹿季の第三子の家、竹鼻家は鹿季第二子の家、薦土家は貞季二男の家とあります。御一門として残ったこれら四家が、本家筋である下国家ではなく、傍系である湊家の分家であるのは、下国・湊両家の統一が、湊家側の優位に進められた結果と推測されます。

 各家の幕末の当主は、山舘家が秋田調、中津川家が秋田仲之助、竹鼻家が秋田斎、薦土家が秋田作兵衛で、これに小野寺市太夫、秋田(佐塚)広記を加えた6名が最高職の年寄りを勤め、屋敷は、山舘家が城坂東上、中津川家が南町(現在の高齢者住宅)、竹鼻家が清水(天沢寺向)、薦土家が入清水西側にありました。

(平田 禎文)

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