ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
トップページ > 分類でさがす > くらしの情報 > ライフインデックス > 生涯学習 > 歴史民俗資料館 > 明治三春人物伝 その2|三春町歴史民俗資料館
トップページ > 分類でさがす > くらしの情報 > 文化・生涯学習 > 生涯学習施設 > 歴史民俗資料館 > 明治三春人物伝 その2|三春町歴史民俗資料館
ナビゲーション ←もくじメニューを表示します。
歴史民俗資料館について
利用案内
自由民権記念館
郷土人形館
講座案内
刊行物案内
三春の文化財
Web資料館
もくじを閉じる

明治三春人物伝 その2|三春町歴史民俗資料館

印刷用ページを表示する 掲載日:2018年8月2日更新

明治三春人物列伝 2 

 

 川前紫渓(かわまえ しけい)

 河野広中の師として知られる。幼名が「大吉」であった彼に、その器量を愛して「広中」の名をつけたのは紫渓である。紫渓は、もと修験者であり、のちに儒学者として家塾を開き、安積艮斎と交友があった。安政4(1857)年、紫渓は集めていた盃が百個となったことを記念した酒宴を催し、その記録を残したいと願った。それに対し艮斎は(今も桜川沿いに碑が残る)「百杯宴記」を著している。
 墓所は福聚寺で、座したまま葬られたといわれている。

 栗原足五郎(くりはら あしごろう)

 慶応元年、三春藩士栗原儀平の長男として生まれる。山口守太郎とは幼なじみである。同じ熊田嘉膳の門下生であり、熊田の計略に従って正道館に入った一人である。栗原らは熊田の意向に反して、高知から招かれた西原・弘瀬の両講師の講義に触れて、自由民権思想に傾倒することになる。二人が高知へと戻ると、その後を追って、五十川・山口・栗原らは高知への留学を果たすのである。高知では発陽社へ入り、先に留学していた河野広体と学び、中江兆民とも接する機会を得たという。
 三島県令の弾圧が厳しくなってきたことを知り、栗原と五十川は急きょ三春へと戻り、一斉検挙の憂き目にあう。福島事件で検挙された栗原は、この後の加波山事件では犯人隠匿の罪で再度捕えられ、年齢により罪を減じられ軽禁固三か月となる。
 明治31年、北海道根室で死去。

 

 熊田嘉膳(くまだ かぜん)

 号は淑軒。岩井沢村(現田村市都路町岩井沢)の出身で、藩医熊田家の養子となり家を継いだ。二本松藩の小此木玄智に医学を学んだ後、江戸に出て西洋医学を学んだとされる。のち長崎で蘭学を学び三春へ戻る。嘉永6年のペリー来航に際し、志願して浦賀へ情勢視察し、藩はその報告を認めて、医業ではなく藩政務に当たらせた。藤田東湖との縁により、水戸藩の反射炉造営にも招かれており、その際に拝領した『大日本史』が今も残る。慶応2年に藩講所の句読師となる。
 戊辰戦争では無血開城のため尽力。明治以降は有志で設立した「養才義塾」の教授をはじめ、明治15年設立の三春町立田村中学校の教師などを勤めている。また、長年自身の塾も開き、教育に貢献した。
 しかし、あくまで河野には反対の立場を貫き、明治20年に亡くなっている。

 

 河野広中(こうの ひろなか)

 嘉永2(1849)年生まれ、自由民権運動家として説明するまでもない人である。ただし、戊辰戦争当時の逸話については注意が必要である。藩論が統一されるのを待てず、官軍と接触を試みたのは広中の兄である広胖(ひろやす)であり、影山正博らとともに美正貫一郎率いる断金隊に入ることを最初に許されたのも兄である。
 熊田嘉膳や富沢村(三春町大字富沢)に生まれ、後に江戸に出て平田篤胤の門下となった飛田昭規らは、最後まで自由民権運動に反対し続けた。三春といえども広中派ばかりではなかったのである。
 また、正道館設立時のみではなく、教育にも長年関心を抱いており、三春小学校にはブリタニカ百科事典などを寄贈していた。彼の逸話の一つに、身分のゆえに藩講所では学ぶことができず、学長の山地立固が特別授業をした、というものがある。広中の漢学の素養は川前紫渓によるものと言われるが、山地の特別授業を受けたことは、身分による権利の差を考える第一歩であったかもしれない。
 その後衆議院議長、農商務大臣などを務め、晩年は普選運動に取り組んだ。

 河野広体(こうの ひろみ:躰もしくは體の字が使われますが、ここでは体を使います)

 河野広体は広中の姉シゲの子で、広中には甥となる。シゲが離婚すると、広体は河野広胖に引き取られ、祖母となる広中の母リヨに養育された。慶応元年生まれ。明治9年に広胖が亡くなると広中に引き取られ、任地である石川町の小学校に入った。明治12年の広中の高知行きに伴われ、高知の立志学舎に学ぶ。14年に三春へ戻り、翌年福島事件が起き、親代わりともいえる広中を拘引されることになる。18歳になったばかりの広体は広中が投獄されたことを嘆き、自らの言説で状況が変わらないことを悟ると、革命挙兵が必要と考えるようになる。加波山での決起に失敗して捕えられると、無期徒刑となり、北海道の空知集治監に送られた。
 明治27年出獄、明治29年には星亨に随伴して渡米している。篆刻などを得意とし、そのいくつかが残されている。

 

 琴田岩松(ことだ いわまつ)

 文久3年生まれ。19歳で正道館に学び、館生たちのリーダー格として、演説会や『三陽雑誌』(館生たちが組織した先憂社の機関紙)の発行などにも活躍した。三陽雑誌は4号で発行停止となり、三島県令批判が最も甚だしかった明治15年6月15日の演説により、ついには1年間の演説禁止が命じられることになった。
 福島事件の際には、県外に逃れて捕縛されなかったが、16年夏、河野広体や五十川元吉らと合流し、三島県令の暗殺を画策することになる。しかし、計画は破たんし、茨城県加波山での決起へと追い込まれ、ついに捕えられた。
 福島事件とは違い、加波山事件に連座した若者たちは国事犯として裁かれることはなかった。琴田と会津の三浦文治は、「強盗犯」の言い渡しに号泣したという。

 

 佐久間兄弟 

 佐久間昌言(まさこと)、佐久間昌後(しょうご)、佐久間昌熾(まさたか)の三兄弟は、三春藩士、儒学者佐久間蕩平の子である。戊辰戦争に際し、藩士ではなく商家などの民間の人々が無血開城を求めて活動をはじめ、影山正博や河野広胖、安積儀作らが官軍方と接触を図ったが、「三春藩を代表する重臣を連れてこい」としてその願いは入れられなかった。彼らは藩士にも働きかけ、渡会外部、鎌田陽一、佐久間昌言、舟田次郎左衛門らと通じることにより、重臣秋田主計とのパイプを作ることに成功する。この後、秋田主計を代表とし、佐久間昌言、昌後、舟田らが改めて交渉に出ることになる。
 自由民権運動では末弟の昌熾も加わり、思想的な部分で大きく貢献することになる。三師社への参加だけではなく、明治13年の「国会開設を請う建言書」は昌言が起草し、昌言は正道館長ともなっている。昌後は三師社の幹事として事務方を引き受け、自由党三春組は昌熾が事務掛となった。福島事件での弾圧を経て、昌熾は晩年、三春町長となっている。

 佐久間庸軒(さくま ようけん)

 父である佐久間質(ただす)らとともに、最上流和算を広めた。庸軒は安積艮斎から贈られた号で、字は正述、名は纉(つづき)。文政2(1819)年、石森村(現田村市船引町石森)に生まれる。14歳までは父のもとで学び、17歳で二本松藩の渡辺一の門に入った。師の没後は旅修行で研さんを重ね、九州天草地方まで足をのばした。嘉永7年には藩主臨席のもと測量を実施、三春家中から選ばれて6人が門下生となる。明治2年、算術教授を拝命し、5年まで勤めたとされるが、庸軒が教授したとされる藩講所は明治4年に廃止となっており、その後藩士有志により設立された養才義塾までを含めるのかは不明である。三春藩の藩校である講所において、実学的なものが講義されたのは庸軒の測量術のみと考えられる。明治6年には洋学修業のため東京へ出て、中井幸太郎の門へ入っている。
 明治4年以降、官有地払下げなどに関する測量に庸軒ら和算家が関与しており、そのあいまを縫って庸軒は算術書を著している。明治9年、生家に戻って庸軒塾を開設、多くの門人の教育に貢献し、明治29年、78歳で亡くなった。
 門弟には

  助川音松(すけがわ おとまつ)
              
⇒庸軒門下、5人の逸材のうちの1人と言われる。三春町字新町で和算塾を開き、
                
洋算が学校教育に取り入れられてから廃れつつあった和算の興隆を目指した。

  伊東直記(いとう なおき) 
              ⇒ 主に測量の分野で活躍し、安積疎水開削時の測量にも参加。

 ほか、後年測量や教育などの分野で活躍する人が出ている。また、自由民権運動でも知られる影山正博や岡野知荘らも和算を学んでいる。

 園部好幸(そのべ よしゆき)

 三春藩士園部修朔の次男として生まれた。明治15年、松本茂の後を継いで三春町戸長となる。前年、自由党福島部の創立に参加し、「福島自由新聞」の株式募集をはじめ県内各地への遊説も精力的に行っていた。
 喜多方での事件後、園部自身は一度も喜多方へは行ったことがないにもかかわらず、12月11日三春で逮捕され、尋問を受けたのち事件の教唆者として会津へ送られ、16年2月、国事犯として東京へ護送された。4月13日罪状なしで放免されるが、出獄後病床に就き、1年後に29歳という若さで亡くなった。