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田村清顕の死と三春の混乱|Web資料館|三春町歴史民俗資料館

印刷用ページを表示する 掲載日:2018年3月14日更新
 

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三春城の500年

田村清顕の死と三春の混乱

 田村氏が三春に移って三代目にあたる清顕の時代は、その勢力基盤が整い、戦国大名へと大きく成長した時代です。清顕が息女愛姫を伊達政宗に嫁がせ、伊達・田村の連合が成立したこともその一因でしょう。

 ところが、1586年10月9日に清顕が急死します。清顕は亡くなる前に、大元帥明王(田村大元神社)に大般若経600巻を自ら書いて奉納しますが、その死後、明王に化け物が出て、清顕の亡霊だという噂が広まりました。

 この事件を始めに、その後の三春は混乱が続きます。それについては、後に編纂された歴史書により解釈が違うのですが、おおよそ以下のような経過です。

 まず、清顕には男子がおらず、後継を決める間もなく急死したため、相馬家出身の清顕夫人を中心に重臣たちの合議制がとられます。当初は、政宗に男子が誕生したならこれを田村家の後継にするという清顕の言葉に従い、何事も政宗の意向を受け、さらに伊達・相馬両家の家臣は三春城へは入れないと取り決められました。しかし、政宗夫妻の不仲が清顕夫人に伝わると、夫人は実家の相馬家に頼ろうとし、清顕夫人を中心とする相馬派と、伊達家出身で先代隆顕夫人を中心とする伊達派に家中が二分されます。

 こうした中、1588年閏五月に、清顕夫人の甥にあたる相馬義胤が、相馬派の手引きにより三春城入城を企てます。しかし、伊達派による説得で、両家とも城内へ入れないことを確認し、城山中腹まで登った義胤らに弓・鉄砲を浴びせて追い返しました。この時、逃げ道である東安達を政宗が攻略していたため、義胤は相馬派の船引城に籠り、しばらくして、命からがら相馬へ帰ったといわれます。

 現在、福聚寺に田村家三代の墓所がありますが、清顕の遺骨は、後に甥の宗顕が伊達家臣の片倉氏に身を寄せたため、白石市の田村家墓所に埋葬されています。

(平田 禎文)

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