ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
トップページ > 分類でさがす > くらしの情報 > ライフインデックス > 生涯学習 > 歴史民俗資料館 > 三春藩三代藩主・秋田輝季〔2〕|Web資料館|三春町歴史民俗資料館
トップページ > 分類でさがす > くらしの情報 > 文化・生涯学習 > 生涯学習施設 > 歴史民俗資料館 > 三春藩三代藩主・秋田輝季〔2〕|Web資料館|三春町歴史民俗資料館
ナビゲーション ←もくじメニューを表示します。
歴史民俗資料館について
利用案内
自由民権記念館
郷土人形館
講座案内
刊行物案内
三春の文化財
Web資料館
もくじを閉じる

三春藩三代藩主・秋田輝季〔2〕|Web資料館|三春町歴史民俗資料館

印刷用ページを表示する 掲載日:2018年3月14日更新
 

Web資料館

三春藩主秋田氏

三春藩三代藩主・秋田輝季〔2〕

 前回、秋田輝季(てるすえ)時代の重要な出来事三つのうち、二つをご紹介しました。今回は、その続きとして、三つ目の出来事をご紹介します。

 輝季時代の出来事として、他の二つにも増して重要だったのが、輝季の後継者問題でした。この件は、「三春化け猫騒動」として、多少ご存知の方もいらっしゃると思いますので、詳しくご紹介します。

 秋田輝季には、12人の子どもがいました。男の子は7人で、彼らが無事成長していれば後継者問題は起きなかったのです。ところが、輝季の子どもは次々と病死し、成人に達した男子は長男広季(ひろすえ)(後就季(なりすえ))ただ一人だけだったのです。しかし、この広季も、父輝季より早く、45歳で亡くなってしまいました。また、広季には4人の子どもがおり、うち二人が男子でしたが、これも幼くして亡くなったため、輝季の後継者は一人もいなくなってしまったのです。広季死去の時、輝季は65歳くらいでした。これから後継ぎをもうけるのは難しいため、結局養子を得ることにしたのです。なお、次々と世継ぎの男子が死んだことが、後に「化け猫騒動」という話を生み出す原因になったのですが、これを「伝説」とするのは間違いです。

 「化け猫騒動」はみなさんのご存知のとおり、佐賀藩で起こった藩主相続問題をモデルにした話ですが、この話も「伝説」ではなく、江戸時代後期に歌舞伎などで上演されて流布したものです。三春の「化け猫騒動」も、こうした歌舞伎を参考に創作されたもので、なんの根拠もない話だったのです。

 輝季の後継者問題は、分家秋田家の当主秋田季侶(すえとも)を養子として迎えることで決着しましたが、この季侶が実は三春藩士荒木玄蕃の子どもだったため、後に藩内を二分する騒動になりました。この点は次の四代藩主頼季(よりすえ)(養子となった季侶のこと)のところで書きます。輝季は享保5(1720)年に死去し、法名は乾元院殿前信州大守剛山瑞陽大居士、墓所は高乾院にあります。また、輝季の死により秋田氏の直系は絶えてしまったのです(広季の娘が頼季の正室となっていますが、血縁関係は次へつながりませんでした)。

(藤井 康)

一覧へ    △このページの先頭へ