ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
トップページ > 分類でさがす > くらしの情報 > ライフインデックス > 生涯学習 > 歴史民俗資料館 > 明治三春人物伝 その3|三春町歴史民俗資料館
トップページ > 分類でさがす > くらしの情報 > 文化・生涯学習 > 生涯学習施設 > 歴史民俗資料館 > 明治三春人物伝 その3|三春町歴史民俗資料館
ナビゲーション ←もくじメニューを表示します。
歴史民俗資料館について
利用案内
自由民権記念館
郷土人形館
講座案内
刊行物案内
三春の文化財
Web資料館
もくじを閉じる

明治三春人物伝 その3|三春町歴史民俗資料館

印刷用ページを表示する 掲載日:2018年8月19日更新

明治三春人物列伝 3

 

 田母野秀顕(たもの ひであき)

 嘉永2年生まれ。田母野は福島市にあった無名館(福島自由党本部)に滞在し、明治15年8月、三方道路問題が切迫してくると会津入りし、自由党会津部を支援しようとした。8月16日午後11時ごろ、田母野が宇田成一らと滞在していた会津若松の清水屋に暴漢が押し入った(清水屋事件)。殴打され、口中にできた傷により、田母野は全身が紫色に膨れ上がったという(このとき毒を使われたとされる)。
 三方道路工事に出ず、代夫賃も出さない(出夫できない場合は代夫賃を出さなければならない。県会での議案毎号否決事件で河野らが主張していることの一つは、人頭税にも等しい課税を県会に諮らず三島通庸県令が行っていることで、道路を作るなということではない)と、抵抗する人が出てくると、家財道具の競売や三浦文治・田村の鎌田猶三らの検挙が行われた。さらに会津自由党の宇田成一、小島忠八、坂内代五郎らが捕えられるに及んで、彼らの釈放を訴えて弾正が原に人々が集結し(11月28日)、喜多方警察署へ押し寄せた(喜多方事件、現在では喜多方・福島事件とまとめられる)。
 田母野は東京で逮捕され、軽禁獄6年となって石川島監獄に入れられてから熱病にかかり、明治16年11月29日早朝、不帰の人となった。リーダー格であった田母野を失った打撃は大きかった。

 中村寛亭(なかむら かんてい)

 文化4(1807)年三春藩士今泉家の三男として生まれ、文政8年、中村家の養子となる。本名は匡(ただし)。寛亭は絵師としての号である。藩主の命により南蘋派(清の沈南蘋の画風を伝える日本画の一派)の絵師荒木寛快に師事し、絵を修業する。他にも鼓や謡なども学び、書画を愛したという藩主、秋田肥季(あきた ともすえ)の相手を勤めた。
 廃藩後、家督を息子に譲ると本格的に画業に取り組み、多くの門弟を育てた。花鳥画を得意とし、中でも鶴を描くことに長けた(「鶴の寛亭」とよく言われる)。明治24年没。
 ※三春郷土人形館1号館1階の襖絵等は、中村寛亭の作品です。

 深間内 基(ふかまうち もとい)

 翻訳家であり自由民権運動にもかかわった教育者である。
 J.S.ミルの『The Subjection of Women(婦人の隷属)』を、「男女同権論」として訳出したのは基である(抄訳)。高知では楠瀬喜多らが女性の権利の草創期とも言うべき声を上げ、仙台では仙台女子自由党が結成されているが、三春では女性の運動家は確認されていない。三春出身者で、男女の権利について論じているのは基が突出している。
 基自身は、明治元年に22歳で慶應義塾に入り英学を学ぶ。その後三春藩に対し、自分以外にももっと洋学修業生を出した方がよいと建議し、加藤木重教が選ばれることになるのである。
 明治9年には高知の立志学舎へ英学教員として赴任、明治11年ごろから翻訳者としての道を歩み始める。ここで基が教えた中に、後に三春へ講師として来ることになる西原清東と弘瀬重正の2人がいた。その2人が教えた三春の五十川や山口、栗原らが民権思想を学ぶため、今度は高知を目指したのである。
 立志学舎を離れた基は、その後仙台へ移り師範学校の教員となる。明治10年に電信技官として東北地方在勤を命じられた加藤木重教も、当時仙台を起点として仕事をしており、このときの回想に、基らがしきりに政談演説をやっていたと記している。演題の中には、男女同権も含まれていた。
 明治34年、仙台で亡くなっている。

 松本 茂(まつもと しげる)

 嘉永元年生まれ。加波山事件で獄死した山口守太郎は甥である。
 明治11年、河野広中は荒町の龍穏院に「三師社」を創立する。社長は河野であるが、その幹事長兼社長代理は松本茂であった。松本は明治12年に三春戸長となると、官費で民権学塾「正道館」を成立させた。その成立は15年3月からとなっているが、14年6月には既に高知から2名の講師が着任しており、三島県令が閉鎖を命じる明治15年3月21日までの1年弱が正道館運営の期間と考えられている。正道館には活版所も付属し、琴田岩松らが発行した『三陽雑誌』はここで印刷された。
 しかし、松本は正道館設置の責任を取らされ、軽禁固二か月、罰金10円に処せられ、福島監獄に服役することとなる。6月下旬に出獄した彼を迎えて、河野らは町内の玉川楼で盛大な祝宴を開いた。この後、弾圧は厳しさを増していくことになる。

 松本芳長(まつもと よしなが

 松本芳長は戊辰戦争当時27歳、城下で酒造業を営んでいた。広中の兄や影山正博たちと実際に官軍方と交渉したグループの1人であり、自由民権運動の長老格の人でもある。維新後は影山とともに三春産馬の維持と復興にも取り組んでいる。廃藩後に産馬制度が崩壊してしまい、弱体化した三春駒育成のため、宮内省に良種の下附を願い出てもいる。
 影山正博や松本芳長らは、自由民権運動と言っても、演説等を行うグループとは一線を画している。産馬会社三春支社長を勤めつつ、商家としての収入もあった彼らは、福島自由新聞の株金募集などに力を貸し、財政的な後方支援を行っていたと考えられる。
 しかし、松本芳長は全くかかわっていない喜多方事件で国事犯扱いされたり、県会議員として議案毎号否決事件の折に出席していたことなどで逮捕されたりと、県令サイドからは重鎮とみられて執拗に追いかけられた。

 三浦守治(みうら もりはる:「もりじ」から「もりはる」へと名の読みを変える)

 安政4年生まれ。平沢村(現三春町大字平沢)村田家に生まれる。三春城下光善寺の井上知完和尚のもとで学び、熊田嘉膳に見いだされ、明治2年に藩講所に入学、岡鹿門の私塾に学び、そののち東京医学校(後の東京大学医学部)に入った。森鷗外は同期生である。
 学問を志しながらも学資を得ることが難しかったため、同じ田村郡の常葉村(現田村市常葉町)より上京し、医師として開業していた三浦義純の養子となる。
 明治8年12月医学部予科から本科へと移り、明治14年3月首席で卒業した。明治15年2月にドイツ留学を命じられる。病理学の大家であったルドルフ・ウィルヒョウのもとで学び、明治20年に博士号を取得して日本に帰り、東京大学に病理学教室を創設した。
 その後は蛇毒、脚気、マラリア等多岐にわたって研究に携わり、特に八重山の風土病をマラリアと判断し、根絶の端緒を開いたこと、脚気の原因特定のため研究史を整理し、立場にとらわれない視点で検討したことは大きな業績である。ただし、三浦自身の説はその弟子によって否定されている(脚気中毒説)。
 また、発がんの研究で知られる山極勝三郎博士など、後進を育てることにも心を砕いた。
 国文学者で歌人である佐佐木信綱とも親交があり、その教えを得て歌集『移岳集』を発行している(故郷の山である移が岳と医学をかけている)。
 大正2年2月2日死去。葬儀では森鷗外が弔辞として「告亡友三浦子文」を寄せている。


 村田謙太郎(むらた けんたろう)

 文久2(1862)年生まれ。三春藩士村田里見の次男である。三浦守治とはいとことなる。藩講所で三浦守治や加藤木重教らとともに学び、12歳で東京に出て、後に三浦の義父となる三浦義純の門へ入る。こののち、壬申義塾、東京外国語学校などに入り、ドイツ語などを学んでから東京大学医学部へと入る。三浦守治の場合は、岡鹿門のもとで学んでからすぐに医学部へ入り、理科系の知識や語学において非常に苦労していることから、いとこに対しては何らかのアドバイスをしたのではないかと考えられる。
 明治17年に卒業し、ベルツの助手となる。明治21年官費留学生となりドイツに留学するが、3年で病気のため帰国、講師とし東京大学にて日本最初の皮膚科を開設。明治24年29歳で皮膚病梅毒学教授に任命されたが、翌年将来を嘱望されながら30歳で亡くなった。
 著作に明治21年発行の『皮膚病梅毒論 皮膚病篇』がある。
(平成17年11月30日発行 東大病院だより No.51を一部参照させていただきました)

 山口守太郎(やまぐち もりたろう)

 三春藩士であった山口登を父として生まれる。天野市太郎や五十川元吉らは幼なじみである。先に熊田嘉膳の私塾に学び、その意図に沿って正道館に入る。熊田はそこで広中らの不行跡を暴くことをもくろんでいたが、正道館講師として高知から招かれていた西原・弘瀬の二人に強い影響を受け、熊田の意図とは逆に自由民権思想を学ぶため、高知の発陽社へ留学した若者の1人となる。もともと体が強い方ではなく、この高知行きでも、山口は一度倒れている。
 捕縛後は、天野らと同様に「強盗」として裁かれることに異議を申し立てたが棄却された。予審終結後から重病を患い、栃木監獄の獄中で二十歳をも迎えずに亡くなっている。
 弟の菊次郎は、明治28年に京都へと移り、京都府職員を勤める傍ら、内村鑑三の知遇を得た。事件関係者はもとより、その周囲の人間も、事件後辛い暮らしを余儀なくされることが多かったのである。

 山地立固(やまぢ たちかた)

 通称は純之祐。水戸に遊学し、会沢正志斎の門下で学ぶ。会沢が蟄居となると三春へ帰り、三春藩講所の教授となった。次いで学長となる。身分のゆえに講所で学ぶことができなかった河野広中に、特別授業を行った人である。広中の漢学の素養は、川前紫渓によるものが大きいが、山地に特別授業を受けたことは、身分による権利の差を感じさせるきっかけとなったとも考えられる。
 山地自身は、慶応4年に熊田嘉膳とともに京都へ上り、藩主名代の秋田広記名で嘆願書を提出した。明治になってからは講文堂と名を改めた講所で局長となったが体調を崩し、4年以降に亡くなっている。