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三春藩四代藩主・秋田頼季〔2〕|Web資料館|三春町歴史民俗資料館

印刷用ページを表示する 掲載日:2018年3月14日更新
 

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三春藩主秋田氏

三春藩四代藩主・秋田頼季〔2〕

 秋田頼季(よりすえ)時代の重大事件として、前回「享保事件」の発端について書きました。今回は、その内容を具体的に書いていきましょう。前回書いたように、藩主頼季の実父荒木高村は、一旦出した扶持返上の願い出を撤回し、藩重役との対決姿勢を強めましたが、こうした状況に心を痛めたのか、頼季は内密に隠居を考え、縁者にあたる江戸幕府老中安藤信友へ相談したようです。

 頼季が相談したためかどうかは分かりませんが、享保14(1727)年、老中安藤重行より荒木高村の隠居、頼季の子民部(後の延季(のぶすえ))の江戸行きの指示が出され、これは三春へも伝えられ、荒木・藩重役がそろった場所で申し渡されました。この指示に荒木が不快感を示したため、貞巌院(秋田輝季未亡人)の指示もあり、荒木は蟄居させられ、この経緯が幕府にも報告されたのです。

 この後、荒木に縁のあった人々が次々と処罰されましたが、死罪になった荒木又市家臣渡辺長右衛門の妻が、こした処罰の不当を幕府へ訴え、事件は幕府法廷へと持ち出されたのです。

 幕府は、荒木玄蕃・又市兄弟を江戸へ呼び寄せ、大目付によって尋問をさせました。この結果、老中より引退指示をよいことに、荒木を蟄居させたこと、長右衛門死罪に当たっては十分な取り調べをしていないことが明らかとなり、頼季に対し閉門という処分が課せられたのです。同時に、荒木蟄居に直接関与したとして貞巌院にも処罰が与えられ、荒木へは改めて引退の申し渡しがされ、弟又市へは無罪の判断が下されたのです。

 閉門とは、屋敷の門を閉ざし、客を迎えたり出かけたりすることも規制される、大名にとっては重い罰です。頼季の閉門は、125日間に及び、閉門が解除された際には家臣一同ほっとした様子が記録に残されています。

 頼季の死はそれから13年後の寛保3(1743)年6月1日、享年46歳でした。家臣の家から藩主になったがゆえの、波乱に満ちた一生ということができます。法名は広運院殿俊徳玄明大居士。墓所は高乾院にあります。

(藤井 康)

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