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田村月斎|Web資料館|三春町歴史民俗資料館

印刷用ページを表示する 掲載日:2018年3月14日更新
 

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三春人物誌

田村月斎

 田村月斎は、戦国大名田村氏の一族で、三代清顕を補佐して勇名をはせた人物です。また、あぶくま荘(三春町字六升蒔)の近くに「月斎館散策路」があり、その名が残されている人物です。ここでは、月斎に関する二つの疑問を紹介しましょう。

 「伊達治家記録」という史料には、「月斎ハ田村殿ノ家ノ臣田村宮内顕頼入道ナリ」と記しています。つまり、月斎とは号であり、実名は田村顕頼といったのです。しかし、田村家の系図には実名「頼顕」とされ、その実名ですら不確かだったことが分かります。

 月斎の実名が「顕頼」なのか「頼顕」なのかは、現在のところ明確にはできません。しかし、田村家の「通字」である「顕」の字に注目すると、おそらく「顕頼」が正しいだろうと考えられます。「通字」とは、その家の人物であることを示すため、名前の一字を代々にわたり使用することを言い、田村家の場合は「顕」の字が通字でした。そして、通字は、本家の当主が下に付ける場合に(義顕・清顕等)、分家は上に付けることが多いので、「顕頼」が正しいだろうと推測されるのです。このように、月斎は実の名前すら不確かな人物ですが、その出生にも不確かな点があるのです。

 月斎は、戦国大名田村家初代義顕の弟とされています。そして、二人の父は田村盛顕という人物ですが、田村家菩提寺福聚寺の記録によれば、盛顕の没年は長亨元(1487)年3月20日とされているのです。父盛顕の没年前後(出産前に盛顕が亡くなる可能性もあります)に月斎が誕生したとすれば、三代清顕の補佐をし、清顕の死後も田村家を見守り、天正17(1589)年、伊達政宗の須賀川攻めにも従軍した月斎は、当時100歳を超える年齢に達していたことになるのです。

 現在では、100歳を超えて元気に活躍する方がたくさんいらっしゃいます。しかし、医療技術や健康管理に対する考え方が未熟だった戦国時代、100歳を超えてなお戦場に立つ武将が本当にいたのでしょうか。疑問無しとはいきません。このように戦国時代の老武将田村月斎は、基本的な事柄すら不確かな人物なのです。

(藤井 康)

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