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宍戸由来の家臣たち|Web資料館|三春町歴史民俗資料館

印刷用ページを表示する 掲載日:2018年3月14日更新
 

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春陽の士

宍戸由来の家臣たち

 秋田氏が宍戸城主(茨城県笠間市)だった1602年から1654年の間に、細川・荒木氏を含め、計四十家の家臣が登用されました。

 この多くが、以前他家に仕えていました。最も多いのが、牛久城由良氏の家臣で、松井・金井・梶塚・蔵田氏がおり、これは由良家に一時寄寓した北畠氏の紹介です。次に多いのが、会津の加藤家で原・三坂・草川氏、分家の二本松加藤家からは小野寺氏が登用されました。そして、宍戸の前領主佐竹家から山野・小堤氏、出羽大宝寺氏の一族から武藤・砂越氏、最上家から植田・太田氏、俊季の正室である永寿院の実家である土浦城主松平家から菊池・渡部氏、毛利家から三宅・松原氏が来ました。ほかに、元会津芦名家の重臣で、上杉・最上家を渡り歩いた松本氏や、近江の浅井長政の孫ともいわれる浅井氏、越前朝倉家から橋村氏、板倉家から石嶋氏などが新たに採用されました。

 当時の秋田家は、当主の秋田城介実季と、嫡男の河内守俊季、二男の長門守季次、三男の隼人正季信の四人が幕府に仕えていましたが、実季は大坂の陣の後は宍戸に引き籠もってしまいました。俊季は、将軍の京都上洛と日光参拝に四度ずつ供をし、江戸城や日光の普請、大坂・駿府城の番など幕府の仕事を精力的にこなしました。季次は、将軍秀忠から一字を賜り忠季と名乗り、小姓組に属しましたが、江戸城中で小納戸弓削七之助に殺害されました。そして、季信も秀忠に仕え、五百石の旗本となり、赤坂今井谷に屋敷を構えたことから今井谷家と呼ばれました。

 こうした中で、1631年に実季は、領地を没収の上、伊勢朝熊(三重県伊勢市)への蟄居を命じられ、俊季には新たに宍戸が与えられました。その後、実季は1659年に84歳で亡くなるまで、朝熊の永松寺で妻の片山氏とその娘千代、さらに近臣の交野氏とひっそりと暮らしました。

(平田 禎文)

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