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三春藩七代藩主・秋田倩季|Web資料館|三春町歴史民俗資料館

印刷用ページを表示する 掲載日:2018年3月14日更新
 

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三春藩主秋田氏

三春藩七代藩主・秋田倩季

 今回は、七代藩主倩季(よしすえ)についてご紹介します。倩季は、五代藩主延季(のぶすえ)の次男として宝暦元(1751)年に誕生しましたが、倩季が藩主に就任できたのは、二つの偶然が重なったことによります。

 偶然の一つは、倩季の兄春之介が7歳で死去したため、倩季が延季の後継者になったことです。しかし、延季は倩季誕生の年に隠居したため、次の藩主は延季の弟定季(さだすえ)が継ぎましたから、定季の血筋が次代の藩主を継承すれば、倩季は藩主になることはなかったのです。

 偶然のいま一つは、叔父である定季が、宝暦7(1757)年6月、わずか29歳で死去したことです。定季には、同じ年に男子(季周(ちかすえ))が生まれていましたが、生まれたばかりの赤ん坊では藩主になれないので、甥である倩季が七代藩主を継いだのです。

 こうして三春藩七代藩主になった倩季は、寛政9(1797)年に隠居するまで、40年の長きにわたって藩政をリードしましたが、その治世で注目されるのは、天明3(1783)年をピークとする凶作や、天明5年の大火による城下町の焼失など、たびかさなる災害を原因とした財政問題に、さまざまな対策を施して対処したことです。具体的には、質素倹約や煙草の専売制、家臣への給与を家族数に応じて支給する面扶持制などで、倩季の苦心がうかがえるものです。

現在の三春小学校の正門     現在の三春小学校の正門 (明徳門)

 倩季治世のいま一つの代表は、藩内子弟の教育に力を入れ、藩校(藩の学校)を建設したことです。現在の三春小学校の正門は、この藩校の門ですから、現在においても倩季の教育への熱意が継承されているのです。

 ところで、倩季の名前は当初「千季(ゆきすえ)」といいました。倩季と改めたのは天明7(1787)年4月のことですが、これには何か理由があったのでしょう。「千」と「倩」の字からは、その意図をうかがうことはできませんが、災害に打ち勝ち、新たな三春藩を創建する意思が、この改名にあったと思われます。

 倩季は、寛政9(1797)年に隠居して英翁(えいおう)と名乗り、文化10(1813)年、63歳で死去しました。法名は建徳院殿古極仁大居士、墓所は高乾院です。

(藤井 康)

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