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加藤明利|Web資料館|三春町歴史民俗資料館

印刷用ページを表示する 掲載日:2018年3月18日更新
 

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三春人物誌

加藤明利

 江戸時代の三春藩主として名を知られているのは、秋田氏です。また、このシリーズで以前取り上げた松下氏も比較的有名です。しかし、今回ご紹介する加藤明利については、あまりご存じないかもしれません。

 江戸時代のはじまりは、慶長8(1603)年、徳川家康が征夷大将軍となったことからとされますが、この時、三春は会津城主蒲生氏の領地でした。しかし、寛永4(1627)年、蒲生忠郷が若くして死去したため、蒲生家を伊予国松山(現在の愛媛県松山市)へ移し、松山藩主だった加藤嘉明を会津藩主にしたのです、

 加藤嘉明は、豊臣秀吉によって取り立てられた武将であり、徳川将軍家とも親しい関係にあったため、奥羽の要とされる会津に移されたのです。そして、これと同時に、嘉明の三男明利が三春城三万石、娘婿松下重綱が二本松城五万石の藩主とされ、いずれも独立した大名となったのです。つまり、江戸時代に入って初めての三春藩主が明利だったのです。

 加藤明利は、慶長4(1599)年に松山で生まれました。三男ということもあり、幼少時から将軍徳川秀忠に仕え、普通なら旗本となるところ、父の会津転封にともない、大名に取り立てられたのです。

 ところで、三春藩主としての明利の治世は、わずか1年半しかありませんでした。これは、同時に二本松藩主になった松下重綱が、同じ年の10月2日に死去し、後継ぎの長綱が、奥州街道の要衝二本松城を預かるには「幼稚」とされたためで、数えで30歳の明利が、長綱に代わって二本松藩主にされたからです。三春藩主をわずか1年半しか務めなかった明利は、三春にほとんど足跡を残さずに去りました。このため、現在にいたっても、最初の三春藩主加藤明利の名は、あまり知られていないのでしょう。

 明利は、二本松藩主を13年余り務め、寛永18(1641)年3月25日に死去しました。墓所は二本松市の顕法寺にあります。なお、明利の死には何らかの問題があったらしく、それを理由に加藤家は改易となったのです。

(藤井 康)

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