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三春藩十代藩主 秋田肥季・十一代藩主 秋田映|Web資料館|三春町歴史民俗資料館

印刷用ページを表示する 掲載日:2018年3月14日更新
 

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三春藩主秋田氏

三春藩十代藩主 秋田肥季・十一代藩主 秋田映季

 三春藩十代藩主秋田肥季(ともすえ)は、九代藩主孝季(のりすえ)の長男として文化9(1812)年に誕生しました。童名は万之助で、文化11年に「御丈夫届」をしています。この届け出は、殿様から将軍に出されるもので、子どもが丈夫に育っているので、後継者候補として承認してください、という意味を持っていました。

 ところで、このとき肥季は数えの3歳でしたが、届け出上は5歳で出されました。その理由は、あまりに幼いと後継者候補として認知してもらえなかったからです。

 文政8(1825)年9月、肥季は正式に孝季の嫡子となり、邦季(くにすえ)と名乗りました。しかし、翌年には肥季と名前を改め、さらに嘉永2(1849)年には憙季(ひろすえ)と改めました。

 肥季は、天保3(1832)年3月、父孝季の隠居にともない藩主となりました。その治世は、以前から続く慢性的な赤字財政の立て直し、徐々に高まる幕末動乱への対処につきると言えます。特に、元治元(1864)年の水戸天狗党の乱では、天狗党が目指した日光山の警備を命じられ、藩兵をひきいて日光に滞在したのです。肥季は、この時の疲労が原因で、慶応元(1865)年5月、幼い映季を残して病死しました。戒名は瑞秀院殿麗山紹光大居士、墓所は高乾院です。

 十一代藩主であり最後の藩主となった映季(あきすえ)は、安政5(1858)年5月、肥季の三男として生まれました。しかし、兄二人がいずれも早世したため、父の死により、わずか8歳で三春藩主となりました。そのため、三春藩は、叔父秋田季春(すえはる)(静臥(せいが))が後見人として指揮し、舵をとったのです。

 映季の治世は、明治4(1871)年の廃藩置県までのわずか6年でしたが、この時期は戊辰戦争、明治新政府による改革への対応等、まさに混乱の時代と重なっていました。しかし、幼い映季自身には、藩主としてのリーダーシップを望むことはできませんでした。

 映季は、廃藩置県後は東京に住み、子爵・貴族院議員となり、明治40(1907)年2月、49歳で亡くなりました。戒名は瑞雲院殿春光映季大居士、墓は当時青山墓地、現在は高乾院の「秋田家累代之墓」となっています。

(藤井 康)

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