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明治以降の秋田氏|Web資料館|三春町歴史民俗資料館

印刷用ページを表示する 掲載日:2018年3月14日更新
 

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三春藩主秋田氏

明治以降の秋田氏

 三春藩主十一代に関する紹介は、前回ですべて終了しました。今回は、このシリーズの最終回として、明治以降の秋田家について書いてみたいと思います。

 最後の藩主秋田映季(あきすえ)は、明治維新後に二度結婚をしています。そして、二番目の妻との間に一女が生まれただけで、その他には子どもがいませんでした。

 当時は、華族制度というものがあり、旧公家・大名、明治維新に功労のあった人々が公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の序列で、爵位を与えられていました。秋田家は、子爵を与えられ、映季は貴族院議員に任ぜられていました。

 しかし、この制度は、男子のみが華族になれるものでしたから、映季に男子がいないのは大きな問題だったようです。そこで映季は、旧公家の大原重朝(伯爵・貴族院議員)の二男重光を養子とし、娘婿に迎えることで後継者問題を解決したのです。この重光が、映季の次の当主となる秋田重季(しげすえ)です。

 重季は、明治19(1886)年に生まれ、養父映季の死により子爵となり、貴族院議員となりました。養子とはいえ、秋田家の当主であり、三春へも何度か訪れています。そして、三春には、重季に関する史跡がいくつか残されています。

 高乾院にある「秋田家累代之墓」「秋田家族之墓」は、昭和10(1935)年に重季が建立したものです。これは、東京の青山墓地・雑司が谷霊園にあった秋田家の墓地を改葬したもので、昭和33(1958)年2月、72歳で亡くなった重季もここに眠っているのです。

 いま一つは、荒町の天王様にある扁額です。この額は、重季の曽祖父重徳が書いたもので、重季が養子になる以前のものではありますが、関係する資料ということができます。

 重季の後を継いだのは、重季と映季の娘芳子との間に生まれた一季氏です。「現在の私たちがあるのは、先祖のおかげです」と常々おっしゃっていたそうですが、三春町へも度々いらっしゃった方ですからご存知の方も多いと思います。

 一季氏は、学習院より東北帝国大学経済学部へ進み、その後民間企業に勤めながら、霞会館理事(旧華族の団体)、学習院理事、学習院剣道部(剣桜会)総監督などを勤められました。学習院剣道部では、現在の天皇・皇太子の指導もされたそうです。また、三春町名誉町民でもあり、三春との深いつながりを保たれましたが、平成9年3月30日、81歳で亡くなられました。お墓は高乾院の「秋田家累代之墓」です。

(藤井 康)

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