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平野金華|Web資料館|三春町歴史民俗資料館

印刷用ページを表示する 掲載日:2018年3月14日更新
 

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三春人物誌

平野金華

 三春町出身の学者は数多くいますが、江戸時代、全国に名をはせた人物として、平野金華をご存知でしょうか。

 平野は、元禄元(1688)年、三春城下清水谷で生まれました。父は藩に仕えた医者で、金華は三男でした。本名は平野玄中、通称源右衛門を名乗り、父の代から三春藩に仕官し、250石五人扶持を与えられていました。三男だった金華は、元服後に江戸へ出、医学の修行をしましたが、医学は肌に合わなかったらしく、数年後に荻生徂徠という人物に弟子入りし、儒学を学びました。

 儒学とは、中国の学問の一つで、孔子が主唱したものです。その教えは、優れた天子を理想とし、「仁」と「礼」を基本に置いたものでした。金華の師荻生徂徠は、江戸幕府八代将軍徳川吉宗の諮問に対し、幕府政治の建て直しに関わる建言書『政談』を記すなど、当時第一級の学者でした。

 金華は、徂徠の下で勉学に励み、「徂徠門下七才子」の一人に数えられたと言い、徂徠の数多くの弟子の中でも、代表的な人物とされたのです。

 金華は、学問はもちろんですが、詩文も得意としたようで、下の「早発深川」と題する七言絶句は、その代表作とされています。詩は次のように書かれています。

月落人烟曙色分
長橋一半限星文
連天忽下深川水
直向総州為白雲
〔読み下し〕
月落ちて、人烟曙色分ける、長橋一半星文を限る、天に連り、忽ちに下る深川の水、直ちに総州に向かって、白雲となる、

 この詩は、三春のことをうたったものではありません。その理由は、若くして江戸へ出、苦学の末に徂徠の高弟となった金華は、やがて守山藩(現在の郡山市守山に陣を置いた藩)に仕官し、享保17(1732)年、江戸で死去したからです。その間、三春に戻ることはほとんどなかったでしょうし、守山藩に仕えても、江戸で生活していたため、その生活風景は、江戸でのものが中心だったからです。

(藤井 康)

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