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三春の歴史概要

印刷用ページを表示する 掲載日:2013年1月23日更新

三春の由来

 一般的に「梅・桃・桜の花が一度に咲き、三つの春が同時に来るから三春と呼ばれるようになった」と言われています。しかし、現在の三春の気候で、こうした状況に逢えるのはまれなことです。

 また、田村義顕が三春へ城を移したのが、永正元年(1504)の正月のことで、移る前の城で1回、三春に移って2回目、その年が閏年だったのでもう1回正月の祝いをしたので、三春と名付けたという説もあります。しかし、永正元年の閏月は3月で、さらにそれ以前から三春の名を記録に見ることができることから、これも正しいとは言えないようです。こうした中で、三春の地名が初めて記録に表れる南北朝時代の文書を見ると、そこには「三春」ではなく「御春」と表記されています。このため、「ミハル」という読みが先にあり、それに「三つの春」という文字を充てたと考えられます。

 こうしたことから、三春は小高い山がいくつも連なり、そこからは郡山盆地を一望にすることができるため、見張りをする「見張る」から「三春」に変わったのではないかとも考えられます。

 いずれにせよ、「三春」という地名は、滝桜をはじめとして美しい花々で彩られる三春を表すのにぴったりあった美しい名前と思われます。

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戦国時代

 中世以来、三春は紀州熊野新宮(現在の和歌山県新宮市)の荘園「田村庄」の一部でした。元々、田村庄の中心は守山(現在の郡山市田村町)でしたが、永正元年(1504)に、田村義顕が三春大志田山に居城を移したと伝えられ、これ以降、三春が田村地方の中心都市となり、城下町として発展しました。

 田村氏は、義顕・隆顕・清顕と続き、清顕の代には、田村地方のほかに北の安達、西の安積、南の岩瀬地方にまで勢力圏を拡大しますが、天正14年(1586)に急死します。清顕には跡継ぎとなる男子がなかったため、清顕の一人娘愛姫の夫である伊達政宗を後ろ盾に、清顕の甥宗顕を当主として、政宗の南奥羽統一を助けます。

 しかし、天正18年(1590)に豊臣秀吉による奥羽仕置きにより、田村家は改易となり、旧田村領は伊達政宗の領地となりました。

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安土桃山時代

 天正19年に秀吉は奥羽の大名の再編成を行い、三春は蒲生氏郷の会津藩の一部となります。会津藩主は、氏郷の死後、上杉景勝、再び蒲生秀行・忠郷と変わり、三春を預かる城代も短期間で交代しましたが、その間にも城の改修や、寺社の建設が進みました。そして、寛永4年(1627)に蒲生忠郷が病死すると、蒲生家は改易となり、代わって伊予松山の加藤嘉明が会津藩主となります。

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江戸時代

 加藤氏が会津藩主となると、その三男加藤明利が三春藩主となり、嘉明の与力大名ではありますが、三春が3万石で独立します。しかし、同時に二本松5万石の藩主となった嘉明の娘婿松下重綱が急死したため、寛永5年の正月に明利は二本松へ移り、替わって三春には重綱の嫡子松下長綱が入りました。その後、正保元年(1644)に長綱は発狂したという理由で、夫人の実家土佐藩山内家に引き取られ、松下家も改易となりました。翌正保2年に常陸宍戸(現在の茨城県笠間市)から秋田俊季が5万5千石で入部し、明治維新まで秋田氏の城下町となりました。

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明治時代

 戊辰戦争で三春藩は当初、奥羽列藩同盟に加盟していましたが、時代の流れを素早く読んだ河野広中らの若い藩士たちの活躍により、無血開城を果たします。明治4年7月には廃藩置県で三春県となり、11月には平県、さらに磐前県と統合改称し、9年に福島・若松県と合併して、現在の福島県が誕生します。

 この頃、三春には自由民権運動が芽生え、河野広中らが11年に政治結社三師社を結成し、15年には政治教育施設として正道館を創設しますが、福島事件・喜多方事件で広中らは逮捕されます。そして、17年に茨城県の加波山に民権運動家たちが蜂起し、多くの三春出身者が投獄されますが、22年には国会が開設されて翌年の選挙で河野広中は衆議院議員となり、後に衆議院議長、農商務大臣などを歴任しました。

 三春には、田村郡役所が21年に設置され、翌22年には町村制の施行により、三春町・御木沢村・巌江村・中妻村・中郷村・沢石村・要田村が成立します。そして、24年には、郡山との間に馬車鉄道が開通し、31年に葉煙草専売法が施行されると三春には一等専売所が開庁し、翌年には三春専売支局と改称して、40年に専売局が成立するまでは東北六県と北海道を管轄する北日本におけるタバコの生産拠点となりました。また、名馬の産地としても全国的に知られ、セリ場のあった新町は馬市の日には賑わい、三春は田村地方のみならず県中地区の政治・経済・文化の中心地として発展しました。

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大正時代

 大正3年に平郡線(現在の磐越東線)の郡山・三春間が開通したため、翌年には馬車鉄道が廃業へ追い込まれました。そして、その跡地に三春繭市場が開設され、養蚕業の集積地をなります。また、10年に史蹟名勝天然記念物保存法が制定されると、翌11年に滝桜が、山梨県の神代桜、岐阜県の薄墨桜とともに三春滝桜が天然記念物に指定されました。12年には県立田村中学校が創立します。

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昭和時代

 昭和9年には、三春出身で大林組副社長を勤めた大林賢四郎の寄付により、三春小学校に講堂が建設されました。12年に日中戦争が勃発し、16年には太平洋戦争へと拡大しますが、この年に田村大元神社の銅製松喰鶴鏡、19年には光岩寺の木造阿弥陀如来立像が国から重要美術品に指定されました。20年には三春も空襲をうけて戦争は終結しますが、22年2月に三春小学校・三春高等女学校が焼失し、4月に三春・御木沢・中妻・要田・中郷、5月に岩江・沢石中学校が開校し、翌年県立田村高校が発足します。

 30年に三春・御木沢・中妻・中郷・沢石・要田の6町村が合併し、その後、岩江村の一部が三春へ、中妻村・要田村の一部が郡山市・船引町へと編入、境界変更をします。

 33年に一本松に塵芥焼却場が完成し、35年には上水道が八島川を水源に開設されます。37年には役場の各支所を廃止し、38年に岩江中学校を三春中学校に統合して、新たに岩江小学校を開校します。39年には敬老園が開設され、40年には役場の現庁舎が完成、そして、43年には磐越東線が全面ディーゼル化し、SLが姿を消しました。44年には大滝根川浄水場が、45年に沼倉ゴミ焼却場が完成し、県道郡山・浪江線が国道に昇格、46年には貝山に町営グラウンドが完成し、三春町公民館も開館しました。

 50年には、三春町出身の田部井淳子さんが女性としては初めてエベレスト登頂に成功し、52年には中妻・鷹巣小学校を統合して、中妻小学校が開校、54年に三春ダムの建設基本計画が告示されます。58年には三春町歴史民俗資料館・自由民権記念館が開館し、62年に岩手県一関市・米国ライスレイク市と姉妹都市を締結しました。

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平成時代

 平成3年に中郷・中妻中学校を統合して、桜中学校が開校します。6年には三春浄水場が完成し、ばんとうプラザ、三春の里田園生活館がオープンしました。7年には岩江中学校が開校し、磐越自動車道が開通、第50回国民体育大会が開催され、町営グラウンドを中心にアーチェリー競技が行われました。10年に三春ダムが竣工し、15年には三春駅前広場、大町街路事業が完成し、三春交流館まほらが開館しました。

 そして、16年には三春城築城500年事業を実施し、17年には三春町合併50周年を迎えました。同年3月には町民自治基本条例を制定し、同年10月に施行しました。また、19年には県立三春病院を譲り受け、町立三春病院として運営を開始、翌20年には新病院を建設しました。21年には、同病院の敷地内に、養護老人ホーム三春町敬老園を建設しました。

 25年4月には、三春・沢石・要田・桜の4中学校を統合し、新三春中学校として開校する予定です。

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