三春城の500年1 田村氏以前の三春|Web資料館|三春町歴史民俗資料館
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三春城の500年 1
田村氏以前の三春
お城山
お城山や舞鶴城の呼び名で親しまれている三春城は、平成15年に築城から500年目を迎えました。
そこで、三春城の500年の歴史を、文献史料や発掘調査の成果などから振り返っていきたいと思います。
さて、三春城の築城と言っているのは、永正元(1504)年に、田村義顕が三春の大志多山に居城を移したと伝えられていることです。
それでは、これ以前の三春はどんなところだったのでしょうか。
三春城周辺で発見される最も古い遺跡は、今から約4,000年前の縄文時代後期にさかのぼり、保健センターの発掘調査では、竪穴住居跡が3軒発見されています。
これは、大滝根川流域に立地する縄文時代の集落が拡大するのと同じ時代なので、人口が増大したこの時期に、桜川のような小河川流域にも縄文人の生活領域が拡大したためと考えられます。
さて、三春という地名が初めて記録に表れるのは、南北朝時代の延元4(1339)年と推定される北畠親房の近臣沙弥宗心が白河の結城親朝に宛てた手紙で、「御春輩(みはるのともがら)」が安達郡東部を略奪しているとの内容です。
当時の三春は紀州熊野新宮の荘園田村庄の一部で、守山に拠点を置いた田村庄司が支配していました。
この史料だけではよくわからないのですが、南朝方の領主田村庄司に逆らって勝手に安達郡内を略奪するような力をもった人物が三春にいたのではないかと考えられます。
また、町内で最も古い法蔵寺は、正応2(1289)年の開山と伝えられ、さらに南町の高齢者住宅では13世紀後半から14世紀前半の建物群や、15世紀代の大型建物跡などが発見されています。
以上から、三春は田村氏が築城したと伝えられる16世紀初頭よりも前の14世紀には、いくつかのお寺や武家屋敷などのある町が形成されていたと考えられます。