三春のあらまし2 御春の輩|Web資料館|三春町歴史民俗資料館
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三春のあらまし2 御春の輩(みはるのともがら)
「みはる」という地名が文字のうえで最初に確認されるのは、現在のところ「結城古文書写」に収録された「沙弥宗心書状」という史料です。
この史料は延元4年(1339)頃のものと思われ、そこには「御春輩」という文字が記されています。
また、その記述から当時三春地方に武士団が存在し、南北朝の争乱に参加していたことがうかがえます。
さて、田村氏が歴史の大きな舞台に登場するのは、応永3年(1396)の田村氏の乱です。
現在の栃木県小山市辺りに勢力を誇った小山氏が、関東公方足利氏満の力に押され反乱を起こしたのがこの乱の発端です。
小山氏で最初に反乱をおこしたのは義政という人物ですが、彼は敗北してしまいます。次に、義政の子若犬丸が再度反乱を起こしますが、彼が二度目に反乱を起こした際に大きな役割を果たしたのが、田村氏でした。
この乱は、田村地方を舞台に展開し、以前から関東公方に敵対していた田村氏を鎮定することにその主眼があったとされています。
そのため、この乱を「田村氏の乱」とも呼ぶのです。敗北したとは言え、当時の田村氏の勢力をうかがうことができる事件です。
さて、この田村氏は「庄司系田村氏」と呼ばれ、当時田村地方に存在した田村庄を管理する人物でした。
しかし、若犬丸と共に反乱を起こし、ついに敗北したため、この田村氏は勢力を失ったとされています。
そして、この後に登場したのが、「三春田村氏」なのです。