三春のあらまし3 戦国大名田村氏|Web資料館|三春町歴史民俗資料館
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三春のあらまし3 戦国大名田村氏
戦国時代三春を支配した田村氏は、先の「庄司系田村氏」と区別して「三春田村氏」と呼ばれています。
現在、両田村氏の系譜を明確にすることはできませんが、庄司系田村氏と三春田村氏は別系統の一族と考えられています。
ただし、最近の研究では両氏を同系統とする意見も出されており、今後さらに究明していかなければならない点になっています。
三春田村氏はもともと、守山(現在の郡山市田村町)にいたとされ、永正元年(1504)田村義顕のとき、三春城を築き、入城したとされています。
田村義顕の治世を具体的に知る手掛かりはほとんどありません。病弱だったという説もありますが、義顕の三春進出により、田村地方の制圧の基盤が築かれたのですから、その意義を過小評価することはできないでしょう。
義顕の後を継いだ隆顕は、会津蘆名氏の中通り地方侵攻に対抗し、安積・岩瀬方面に進出しようとします。
しかし、四方を敵に囲まれ、十分野望を達成することはできませんでした。そして、田村氏時代最も華々しい活躍を見せたのが、次の清顕でした。
田村清顕は、伊達政宗正室愛姫の父として有名ですが、武将としても優れた資質を持っていました。
隆顕以来の周囲の敵には、伊達氏の庇護の下次々と戦さを仕掛け、田村氏時代中最も版図を広げた武将と考えられています。
しかし、清顕には後継となる男子がいなかったため、政宗と愛姫の間に生まれた男子が後継者になることを願いつつ戦乱の中死去してしまいました。
清顕の死後、田村氏は政宗の勢力下に置かれ、清顕の甥である宗顕が家督相続をしますが、天正18年(1590)豊臣秀吉の奥羽仕置により改易となったのです。