三春藩主秋田氏4 三春藩三代藩主・秋田輝季 その2|Web資料館|三春町歴史民俗資料館
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三春藩主秋田氏 4
三春藩三代藩主・秋田輝季 その2
前回、秋田輝季(てるすえ)時代の重要な出来事三つのうち、二つをご紹介しました。
今回は、その続きとして、三つ目の出来事をご紹介します。
輝季時代の出来事として、他の二つにも増して重要だったのが、輝季の後継者問題でした。
この件は、「三春化け猫騒動」として、多少ご存知の方もいらっしゃると思いますので、詳しくご紹介します。
秋田輝季には、12人の子どもがいました。男の子は7人で、彼らが無事成長していれば後継者問題は起きなかったのです。
ところが、輝季の子どもは次々と病死し、成人に達した男子は長男広季(ひろすえ)(後就季(なりすえ))ただ一人だけだったのです。
しかし、この広季も、父輝季より早く、45歳で亡くなってしまいました。
また、広季には4人の子どもがおり、うち二人が男子でしたが、これも幼くして亡くなったため、輝季の後継者は一人もいなくなってしまったのです。
広季死去の時、輝季は65歳くらいでした。これから後継ぎをもうけるのは難しいため、結局養子を得ることにしたのです。
なお、次々と世継ぎの男子が死んだことが、後に「化け猫騒動」という話を生み出す原因になったのですが、これを「伝説」とするのは間違いです。
「化け猫騒動」はみなさんのご存知のとおり、佐賀藩で起こった藩主相続問題をモデルにした話ですが、この話も「伝説」ではなく、江戸時代後期に歌舞伎などで上演されて流布したものです。
三春の「化け猫騒動」も、こうした歌舞伎を参考に創作されたもので、なんの根拠もない話だったのです。
輝季の後継者問題は、分家秋田家の当主秋田季侶(すえとも)を養子として迎えることで決着しましたが、この季侶が実は三春藩士荒木玄蕃の子どもだったため、後に藩内を二分する騒動になりました。
この点は次の四代藩主頼季(よりすえ)(養子となった季侶のこと)のところで書きます。
輝季は享保5(1720)年に死去し、法名は乾元院殿前信州大守剛山瑞陽大居士、墓所は高乾院にあります。
また、輝季の死により秋田氏の直系は絶えてしまったのです(広季の娘が頼季の正室となっていますが、血縁関係は次へつながりませんでした)。