三春のあらまし5 秋田氏時代以降|Web資料館|三春町歴史民俗資料館
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三春のあらまし 5 秋田氏時代以降
正保元年(1644)松下長綱が改易となり、、翌2年に三春城主として入城したのが秋田俊季です。
秋田氏は現在の田村郡の大半と郡山市の一部を含めた5万5千石(後に5千石を分知)を領地とし、明治4年(1871)の廃藩置県まで230年余り、11代にわたってこの地方を治めました。
秋田氏は中世東北北部で名を馳せた安東(藤)氏の系譜を引き、現在の青森県から秋田県にかけて勢力を誇りました。
しかし、関ヶ原の戦い後常陸国宍戸(現在の茨城県友部町)に領地を移され、さらに三春に国替えを命じられたのです。
三春藩政は初代俊季・2代盛季の時期に確立され、特に財政面での基礎が作られました。
しかし、3代輝季から4代頼季にかけては藩主後継問題が表面化し、藩内を二分する大事件へと発展、幕府の裁定を受ける結果となりました。
また、7代倩季の時代には、天明の飢饉による領内疲弊、同5年(1785)の大火災による三春城及び城下の焼失により、財政が極度に悪化し、度々幕府から拝借金をしています。そして、こうした難題に対処する意味もこめて、倩季の時代には藩講所が設置され、藩士子弟の教育充実が図られたのです。
また、三春を代表する郷土玩具三春張子人形は、現在も高柴(現郡山市西田町)で製作されていますが、言い伝えによると、人形師には3人扶持が給され、城下神社に店を出すことが許されたと言います。
藩との直接の関係は明らかにはできませんが、秋田氏時代の大きな遺産となっています。
三春藩最後の藩主映季は、慶応元年(1865)わずか8歳で父の遺領を継ぎ、幕末の動乱に巻き込まれました。
戊辰戦争では奥羽列藩同盟に参加しましたが、小藩の微力さから新政府軍とも交渉し、領内を戦禍にさらすことなく無血開城を実現しました。
映季は、明治2年(1869)の版籍奉還により三春藩知事に任命されましたが、同4年の廃藩置県でその官を退き東京へ移りました。
明治4年7月14日の廃藩置県により、三春藩は三春県となりましたが、以後、平県へ編入され、平県が磐前県へと改称、そして明治9年8月21日に旧福島県・若松県・磐前県合併が成り、福島県に組み入れられたのです。