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三春藩主秋田氏5 三春藩四代藩主・秋田頼季その1|Web資料館|三春町歴史民俗資料館

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三春藩主秋田氏 5

三春藩四代藩主・秋田頼季 その1

秋田頼季(よりすえ)は、元禄11(1698)年に生まれました。
父は三春藩士荒木玄蕃高村、母は秋田季通(すえみち)の娘ですから、藩士の家に生まれたとはいえ、秋田実季(さねすえ)の弟の血筋に当たります。
後に、三春藩分家五百石秋田家の養子となり(この頃、名前を季侶(すえとも)とします)、同家を継ぐことで、三春藩後継者の一人になったのです。

正徳5(1715)年6月4日、三代藩主輝季の後継者就季(なりすえ)が病死すると、その後継者問題が起こりましたが、前回書いたように、結局頼季が後継者となり、同年9月に輝季の養子となり、三春藩主となったのです。

頼季の時代は、彼が三春藩主直系ではなかっただけに、さまざまな混乱が生じました。
特に、頼季の父荒木高村をめぐって三春藩内で起こった争いごとは、有名な「腹切り梅伝説」とも関連して、この時代を代表する出来事とされたのです。

頼季藩主就任後の混乱は、「正徳事件」と言われています。
この事件は、頼季と荒木高村派、それに反発する勢力との対立だとされていますが、現在のところ、事件と言うほどの出来事は確認されていません。
ただ、滋野多兵衛の切腹が正徳4年の暮れに起こっているだけです。

滋野の切腹が「腹切り梅伝説」となるのですが、この切腹の理由自体もはっきりしません。
しかし、切腹の年が就季死去の前年ですから、藩主後継者問題とも関係なさそうです。
つまり、この出来事を頼季の藩主就任と関連付けるのは無理と考えられるのです。
以上の点から、「正徳事件」という事件の存在はなく、問題は次の「享保事件」だけと言えるのです。

「享保事件」とは、享保14(1729)年5月、荒木高村が蟄居させられ、同15年に頼季自身も幕府より閉門を命じられた出来事をさします。
この事件の発端は、享保13年6月、荒木が知行を返上し、三春から退去したいと願い出たことによります。
荒木の願いは三春藩主家老たちによって拒否されましたが、一方で家老たちは、荒木の引退をすすめました。
これに反発した荒木が、先の願い出を撤回し、猛然と家老たちに対抗しはじめたのです。
こうして始まった混乱は、やがて頼季の閉門という、三春藩はじまって以来の大事件へと発展しましたが、詳しくは次回ご紹介しましょう。

(2002年7月 藤井 康)  

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