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三春人物誌5 滋野多兵衛|Web資料館|三春町歴史民俗資料館

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三春人物誌 5

滋野多兵衛

大町の紫雲寺にある「腹切り梅」は、「三春化け猫騒動」にも関係する史跡ですが、今回は、この「腹切り梅」の主人公、滋野多兵衛についてご紹介します。

滋野家は、今回取り上げる多兵衛次通の代に秋田家に仕官した家です。
多兵衛は最初、三春藩士草川次綱の養子となり、三代藩主秋田輝季の世継ぎ広季の小姓となりました。
しかし、次綱に実子が誕生したため、草川家から離れ、本姓の滋野を名乗り、新たに百石の知行を得て三春藩士となったのです。

しかし、多兵衛は、あることがきっかけで、正徳4(1714)年12月4日に切腹を命じられ、家名は断絶とされたのです。
多兵衛が切腹を命じられた際の史料が、『三春町史2』に集録されています。
それによると、多兵衛切腹の原因は、主に「上之御中ヲさまたけんとせし悪事」によるものでした。
この「上之御中ヲさまたけん」とは、当時の藩主輝季と広季親子の仲を悪くするという意味ですから、これを理由に切腹させられたのです。

多兵衛が具体的にどのような行為をしたかは明らかではありませんが、広季の小姓を経験した多兵衛は、おそらく、正徳4年当時65歳だった輝季が隠居し、当時44歳にもなっていた広季に家督が譲られることを期待し、活動したのではないでしょうか。
しかし、普段からあまり仲が良くなかったとみられる輝季・広季父子の前において、このような行動は輝季の逆鱗にふれたのでしょう。
まさに「上之御仲」を妨げる行為だったのです。

ところで、多兵衛が実際に紫雲寺の梅の下で切腹したかどうかは明らかではありません。
しかし、多兵衛切腹に関連付けて「化け猫」伝説が発生したのは、明らかに明治時代に入ってからです。
そのことは、ストーリーの類似性から、有名な「鍋島化け猫騒動」が流布する時期以降と考えられるからです。

なお、多兵衛自身が期待していた広季は、正徳5年6月4日に死去し、輝季の後継者は、三春藩重臣荒木高村の子、頼季となりました。
これも様々な伝説を生み出す原因になったのです。

(2006年8月 藤井 康)

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