三春城の500年6 田村氏の改易|Web資料館|三春町歴史民俗資料館
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三春城の500年 6
田村氏の改易
伊達政宗は、田村宗顕を立てて三春を支配下とすると、翌天正17(1589)年、摺上原で葦名・佐竹連合軍を破り、葦名・二階堂氏を滅ぼして、東北地方南部を制覇します。
しかし、政宗の快進撃もここまでで、天下の形勢は既に豊臣秀吉のものでした。
政宗が秀吉を訪れた石垣山一夜城跡に残る石垣
天正18年2月、秀吉は天下統一の仕上げとして、小田原の北条氏を攻めます。
そして、東日本各地の大名に、小田原攻めへの参加を求めました。
政宗も仕方なくこれに従い、遅ればせながらも6月に、徳川家康に伴われて石垣山の秀吉の下へ出仕しました。
この時、秀吉は田村宗顕にも参陣するよう命令しています。
しかし、宗顕は政宗に任せていたので返事を保留しました。その結果、政宗は会津を召し上げられ、参陣しなかった白川義親・石川昭光等とともに田村氏は改易となりました。これが秀吉の奥羽仕置きです。
北条氏を降伏させた秀吉は、8月に会津の黒川城に入ります。
この頃宗顕は、伊達家へ出した書状で、すでに領内に豊臣軍が入って、各地の城を壊しており、自分は改易を撤回してもらうため、豊臣軍の一員として、明日にも葛西・大崎へ出陣するつもりだと伝えています。
しかし、10月になると政宗から、残念だが田村領は政宗の領地に決まったので、後で何とかしてあげたいと田村家へ連絡があります。
ところが、同じ頃に政宗が自分の家臣へ宛てた手紙では、田村領は確実に自分のものになったので、宗顕が秀吉に直訴しても、取り返される心配はないと本音を語っています。
実はこの時、秀吉は田村領を政宗にではなく、政宗の家臣片倉景綱に与えますが、景綱が辞退したため、政宗の領地となりました。
この奥羽仕置きで豊臣軍により、三春城を除く領内すべての城が破壊され、農地の検地や刀狩りが行われます。
そして、会津に入った蒲生氏郷は、三春には片倉景綱がいるので、須賀川の支城田丸具直に、葛西・大崎には出兵せず留まるよう命じています。
この頃の三春は、豊臣方と伊達政宗の策略の間を漂っていました。