三春人物誌6 田村月斎|Web資料館|三春町歴史民俗資料館
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三春人物誌 6
田村月斎(たむらげっさい)
田村月斎は、戦国大名田村氏の一族で、三代清顕を補佐して勇名をはせた人物です。
また、あぶくま荘(三春町字六升蒔)の近くに「月斎館散策路」があり、その名が残されている人物です。
ここでは、月斎に関する二つの疑問を紹介しましょう。
「伊達治家記録」という史料には、「月斎ハ田村殿ノ家ノ臣田村宮内顕頼入道ナリ」と記しています。
つまり、月斎とは号であり、実名は田村顕頼といったのです。
しかし、田村家の系図には実名「頼顕」とされ、その実名ですら不確かだったことが分かります。
月斎の実名が「顕頼」なのか「頼顕」なのかは、現在のところ明確にはできません。
しかし、田村家の「通字」である「顕」の字に注目すると、おそらく「顕頼」が正しいだろうと考えられます。
「通字」とは、その家の人物であることを示すため、名前の一字を代々にわたり使用することを言い、田村家の場合は「顕」の字が通字でした。
そして、通字は、本家の当主が下に付ける場合に(義顕・清顕等)、分家は上に付けることが多いので、「顕頼」が正しいだろうと推測されるのです。
このように、月斎は実の名前すら不確かな人物ですが、その出生にも不確かな点があるのです。
月斎は、戦国大名田村家初代義顕の弟とされています。
そして、二人の父は田村盛顕という人物ですが、田村家菩提寺福聚寺の記録によれば、盛顕の没年は長亨元(1487)年3月20日とされているのです。
父盛顕の没年前後(出産前に盛顕が亡くなる可能性もあります)に月斎が誕生したとすれば、三代清顕の補佐をし、清顕の死後も田村家を見守り、天正17(1589)年、伊達政宗の須賀川攻めにも従軍した月斎は、当時100歳を超える年齢に達していたことになるのです。
現在では、100歳を超えて元気に活躍する方がたくさんいらっしゃいます。
しかし、医療技術や健康管理に対する考え方が未熟だった戦国時代、100歳を超えてなお戦場に立つ武将が本当にいたのでしょうか。
疑問無しとはいきません。
このように戦国時代の老武将田村月斎は、基本的な事柄すら不確かな人物なのです。