三春城の500年7 会津藩の支城|Web資料館|三春町歴史民俗資料館
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三春城の500年 7
会津藩の支城
田村氏改易の翌年、岩手県で起こった九戸の乱を鎮圧した豊臣政権は、東北地方の大名領地を再編成します。
その結果、田村郡は会津藩主蒲生氏郷の領地となり、田村郡は会津領内でも最大級の領地で、それを治める三春はとても重要な支城となります。
まず、会津藩重臣の田丸具直が城代として三春城に入りますが、しばらくすると田丸は守山へ支城を移します。
そして、氏郷が急死すると嫡男秀行が藩主となりますが、若い秀行には歴戦の武将を数多く抱える蒲生家を治められないと判断され、秀行は宇都宮へ移され、替わって越後から上杉景勝が会津に入りました。
上杉氏の時代は、守山を支城としたため、三春は使われませんでした。
そして、関ヶ原の戦の結果、徳川氏の世となると、上杉氏は領地を削られ米沢へ移り、家康の娘を嫁にもらっていた蒲生秀行が会津へ戻ってきます。
田村郡の城代となった蒲生郷成は、最初守山城へ入りますが、数年後三春へ戻ってきます。
その後、蒲生家中の権力争いのたびに、三春城主は替わり、蒲生姓を名乗る重臣たちが交代で三春城主となりますが、1627年に蒲生氏は改易となります。
三春城本丸の石垣
このように城主が一定していなかったことと、蒲生氏の史料があまり残されていないことから、この時代の三春は廃れていたと考えられていました。
しかし、近年の調査で、三春城の本丸周囲には、蒲生氏が築いた大規模な石垣があり、城下町からは桃山時代の高級な茶道具を含む大量の遺物や建物の跡などが発見されています。
また、荒町(当時は新町と書きました)は、蒲生氏により新たに町割りされ、光善寺や法華寺、丈六の仏堂もこの時期に開山・建立されたと伝えられ、この時期の三春は廃れるどころか活発に城下町建設が進められていたことがわかってきました。
蒲生氏は、伊勢松坂や会津若松を始め、たくさんの城下町を建設しており、町づくりが得意な大名です。
三春も蒲生氏によって、戦国の城下町から江戸時代の城下町へとつくり直されたと考えられます。