三春城の500年8 松下氏の時代|Web資料館|三春町歴史民俗資料館
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三春城の500年 8
松下氏の時代
州伝寺の松下家墓所
寛永4(1627)年の正月に、会津藩主蒲生忠郷が亡くなると、出羽上山藩主であった弟忠知が蒲生家を継ぐとともに、伊予松山の加藤嘉明と入れ替えになります。
この嘉明は、賎ヶ岳七本槍の一人で、会津四十万石を、三男明利が三春三万石、娘婿の松下重綱が二本松五万石を拝領します。
明利と重綱は嘉明に属する大名とされ、三春はこれまでの会津の支城から、支藩と似た地位に替わり、名目上独立した藩となります。
しかし、10月に重綱が亡くなると、翌年正月にその嫡子長綱が、明利と交替で三春藩主となり、寛永21(1644)年に改易されるまで三春を治めました。
松下重綱の父之綱は、幼少の豊臣秀吉が最初に仕えた武将として有名で、その後、常陸小張、下野烏山の城主となり、重綱が加藤嘉明の娘と結婚した縁で、二本松・三春へと移りました。
三春に移ると、新町に州伝寺を建立し、父重綱の菩提を弔い、北町に光岩寺を建てて阿弥陀如来像を祀り、後に母加藤氏の菩提寺としました。
この時代の三春城は、まだ山城のままで、藩主は山上の御殿に暮らし、重臣達の屋敷は、中腹の平場に築かれました。
また、前代と違って多くの家臣を抱えましたので、中下級武士の屋敷が設けられ、さらに城下が拡大しました。
松下長綱は、記録が少なく、よくわからない人物です。
幕府の記録では、三春へ移った理由が「幼稚たれば」、改易された理由が「発狂しければ」とあり、幕府の仕事もほとんど任されていません。
長綱が改易される前年、会津の加藤氏が改易され、同じ立場の二本松加藤氏も改易されますが、松下氏は改易されませんでした。
しかし、翌年、妻の父である土佐藩主山内忠義が、長綱が発狂したので領地を幕府に返したいと願い出、それが許可されて改易となります。
キリシタンであったという説もありますが、病弱であったのは確かだと思われます。
また、この時代から、将軍が亡くなると三春藩から大量の水晶が日光に奉納されるようになります。