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春陽の士8 三春由来の家臣たち|Web資料館|三春町歴史民俗資料館

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春陽の士 8

三春由来の家臣たち

正保2年(1645)、秋田俊季は約40年を過ごした宍戸から三春へ移され、三春はその後約220年に渡り、秋田家の領地となります。

三春で新たに秋田家に仕官した武家は、資料が少ない19世紀代を除いた約150年間だけでも78家あるため、これを補充したもので、家臣団が増えているわけではありません。

これらが仕官した殿様は、初代俊季の代に7家、二代盛季に18家、三代輝季に24家、輝季の子就季に2家、七代倩季に11家、八代謐季に1家で、輝季・盛季・倩季の代に多く召抱えています。
初代の俊季は、三春に転封して4年で亡くなり、その間、勅使の饗応役や日光警備・大坂城番などの勤役が続き、三春には1年半しかいませんでした。
このため、盛季が三春での支配の基礎を固めるために、多くの人材と登用しました。
そして、輝季・倩季の代に多いのは、共に治世が40年間と長いためです。

丸に鞠挟み紋(大見家か)の火事装束
丸に鞠挟み紋(大見家か)の火事装束

このうち、初期の俊季・盛季の代に多いのが、先代の三春藩主松下氏や会津・二本松藩主加藤氏の旧臣たちで、天野・木沢・代重・熊田・市川・不破氏などがおり、三春の事情に詳しいために採用されたと思われます。

次の輝季の代になると、越後高田の松平家が改易され、輝季も幕府の命令で高田城に在番します。
この時、松平家の旧臣青柳・渡邉氏や、所氏を採用したほか、輝季の正室本性院の実家である小浜の酒井家から、坂本・小宮山氏が仕官しました。
そして、頼季の代以降は、赤尾・市川・橋本・大江氏といった夫人やその女官の一族の登用が増えました。

三春で新たに召抱えられた藩士の禄高は、18世紀中頃の元文年間では、百石から百五十石程度が大部分ですが、中でも市川・赤松氏が二百五十石、吉見・大見・八木氏が二百石と高く、御用人などの要職を勤めています。

(2005年11月 平田 禎文)

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