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三春人物誌9 秋田季周|Web資料館|三春町歴史民俗資料館

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三春人物誌 9

秋田季周

三春藩主秋田家の歴代藩主については、「三春藩主秋田氏」ですでにご紹介しました。
今回ご紹介する秋田季周は、藩主の長男に生まれながら、表舞台に立つことなく一生を終えた、数奇な運命の人物です。

季周は、宝暦5(1755)年、六代藩主秋田定季の長男として誕生しました。
一説には、宝暦7年の誕生ともいいますが、当時の年齢は、公的年齢と実際の年齢が異なることも多く、実際の誕生年を確定することは困難です。

秋田定季は、四代藩主頼季の二男として誕生し、兄延季が五代藩主となったものの病気により隠居し、その男子が幼少だったため、六代藩主に就任した人物です。
しかし、定季自身も病弱だったらしく、在職わずか6年で宝暦7年6月14日、29歳で死去したのです。

定季が死去した時、季周は2歳(あるいは0歳)だったため、定季の後を継ぐことはできず、延季の長男千季(のちの倩季)が定季の養子となり、藩主に就任したのです。
このような経緯により、季周は藩主の長男として誕生したにも関わらず、幕府へは延季の子として届け出られ、公的には千季の弟という位置付けがなされ、藩主への道がふさがれてしまったのです。

この後の季周は、部屋住み(藩主になることのない庶子であり、生活費だけを与えられる人物)として一生を過ごすこととなり、名字も「秋田」ではなく「安東」を名乗り、「左京」という通称で呼ばれるようになりました。
当時の古文書を見ると、「左京殿」と書かれ、「様」と呼ばれる人物より一段低い地位に置かれていたことが分かります。

普通なら、季周はこのまま人生を終えるはずでしたが、天明3(1783)年に「秋田」の名字を許され、文化元(1804)年5月には、娘鉄が九代藩主孝季の正室になったため、その地位が上昇し、「左京様」と呼ばれることとなりました。

季周は、文化7年4月2日、「此楽」と号し、藩主正室の父という立場を維持したまま、天保13(1842)年5月7日、86歳の天寿をまっとうして亡くなりました。

(2006年12月 藤井 康)

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