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三春城の500年10 秋田氏時代の三春|Web資料館|三春町歴史民俗資料館

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三春城の500年 10

秋田氏時代の三春

正保2(1645)年に秋田氏が三春に入ると、御殿を本丸から現在の三春小学校に移したほかにも、城下町を大きく変えました。

まず、それまで町人たちが暮らしていた南町を、岩城街道沿いに移して新南町としました。これが現在の新町です。

これにより、城の周囲に武家屋敷を集中させ、さらに町人の暮らす町や寺社を、主に町の西側にまとめることで、居住地を身分ごとに区分しました。
また、町の外縁に下級武士が暮らす組屋敷を置き、さらに門や番所を建てて警備に当たらせました。
そして、高乾院や龍穏院、真照寺といった菩提寺や祈願寺、さらに三代藩主秋田輝季の母が信仰したオシンメイ様のために、神明宮(三春大神宮)を建てるなど、たくさんの寺社を建立して、文化の向上に努めました。

こうして出来上がった町も、たびかさなる火災により、焼失と復興を繰り返しました。
特に天明5(1785)年の大火は、城を含めて大半を失う大災害となりました。

2月22日の昼1時過ぎに、八幡町の鍛冶屋から出火した火事は一気に燃え上がり、八幡町・中町・大町・北町を夕方までに焼き尽くし、荒町は龍穏院前、新町は真照寺前、入清水の中ほどで何とかくい止めましたが、夜中までには城も本丸表門を除いてすべて焼け落ちました。
当時、三春にいた藩主倩季は、最初は北町の黒門辺りに陣を構えていましたが、城に火が迫ると三階櫓に納めていた将軍の朱印状とともに亀井の宝来寺へ移り、夜には真照寺へ御座所を移し、同寺古四王堂に朱印状を納めました。
その後、5月には馬場に新設した仮御殿へ移りますが、11月には馬場御殿も焼失しました。

火災の3年後に、三春を訪れた古河小松軒の記録では、寂しいイメージが強いようですが、その翌年には三階櫓も復興され、次第に町も整備されます。
そして、享和3(1803)年の長岡藩士の旅日記では、城や上級武士の屋敷の造りが特に見事だという感想が記されています。

このように、災害と復興を繰り返すことで、現在の三春の町が築き上げられました。

(2004年2月 平田 禎文)

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