本文までスキップする
  • トップページ
  • 三春人物誌11 平野金華|Web資料館|三春町歴史民俗資料館

三春人物誌11 平野金華|Web資料館|三春町歴史民俗資料館

印刷

掲載している情報は記事執筆時点のものです。現状と異なる場合がありますのでご了承ください。 

Web資料館について、詳しくはこちらをご覧ください。   

Web資料館

三春人物誌

平野金華

三春町出身の学者は数多くいますが、江戸時代、全国に名をはせた人物として、平野金華をご存知でしょうか。

平野は、元禄元(1688)年、三春城下清水谷で生まれました。
父は藩に仕えた医者で、金華は三男でした。
本名は平野玄中、通称源右衛門を名乗り、父の代から三春藩に仕官し、250石五人扶持を与えられていました。
三男だった金華は、元服後に江戸へ出、医学の修行をしましたが、医学は肌に合わなかったらしく、数年後に荻生徂徠という人物に弟子入りし、儒学を学びました。

儒学とは、中国の学問の一つで、孔子が主唱したものです。
その教えは、優れた天子を理想とし、「仁」と「礼」を基本に置いたものでした。
金華の師荻生徂徠は、江戸幕府八代将軍徳川吉宗の諮問に対し、幕府政治の建て直しに関わる建言書『政談』を記すなど、当時第一級の学者でした。

金華は、徂徠の下で勉学に励み、「徂徠門下七才子」の一人に数えられたと言い、徂徠の数多くの弟子の中でも、代表的な人物とされたのです。

金華は、学問はもちろんですが、詩文も得意としたようで、下の「早発深川」と題する七言絶句は、その代表作とされています。
詩は次のように書かれています。

  月落人烟曙色分
  長橋一半限星文
  連天忽下深川水
  直向総州為白雲

〔読み下し〕
月落ちて、人烟曙色分ける、長橋一半星文を限る、天に連り、忽ちに下る深川の水、直ちに総州に向かって、白雲となる

この詩は、三春のことをうたったものではありません。
その理由は、若くして江戸へ出、苦学の末に徂徠の高弟となった金華は、やがて守山藩(現在の郡山市守山に陣を置いた藩)に仕官し、享保17(1732)年、江戸で死去したからです。
その間、三春に戻ることはほとんどなかったでしょうし、守山藩に仕えても、江戸で生活していたため、その生活風景は、江戸でのものが中心だったからです。

(2007年2月 藤井 康)

より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください

お求めの情報が十分掲載されていましたか?
ページの構成や内容、表現は分かりやすいものでしたか?
この情報をすぐに見つけることができましたか?