春陽の士12 三春駒を育てた藩士|Web資料館|三春町歴史民俗資料館
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春陽の士 12
三春駒を育てた藩士
江戸時代の後期から近代にかけて、田村地方産の馬は三春駒と呼ばれて、名馬も多く、馬産は重要な産業でした。
三春は元来、馬の産地ではありましたが、馬が産業にまで育ったのは、三代藩主秋田輝季の時代です。
輝季が藩主となって初めての参勤の時、領内で産した黒鹿毛の七歳馬を四代将軍家綱へ献上し、それからは参勤の度に名馬を献上することで三春駒をアピールしました。
その後、輝季に抜擢され藩政改革を委ねられた大郡代の中村政徳は、馬場を整備するとともに、駒奉行の桑島彦六に馬の品種改良を命じました。
桑島は、仙台・南部藩領を巡って良馬を買い付け、地元の馬とかけ合わせました。
その結果、三春は多くの良馬を産出する馬の名産地となりました。
享和3年(1803)に三春を訪れた長岡藩士の記録によると、当時馬の乗役は園部治郎左衛門と惣太、中西弥五兵衛、松村半平の4名がおり、中西が一番の乗り手で殿様や家中の師範を勤めていたそうです。
園部氏は、馬方として秋田家に代々仕え、特に好道とその子直道・好寛が馬乗りの名手として有名で、馬の調教や藩主の馬術指導を行うとともに、駒役・馬医・御厩別当などを勤めました。
そして、馬市には近隣の大名だけではなく、久留米(福岡県)の有馬家などでも毎年4・5頭の馬を購入しました。
ほかに毎年7月14日から16日の三夜にわたって、厩から8頭ずつ馬を乗り出し、松明の焚かれた町中を駆け回る馬の早乗りの行事があったようです。
田村大元神社の二代徳田研山筆絵馬
園部氏らと同じく馬方を代々勤めた徳田氏は、江戸時代後期から明治にかけて、好時・好展・甘露の三代が研山と名乗り、絵馬をはじめとして多くの馬の絵を描きました。
二代好展は三春大神宮の白馬像の製作指導もし、三代甘露とともに近代馬への品種改良の橋渡しをしました。