本文までスキップする
  • トップページ
  • 三春藩主秋田氏7 三春藩五代藩主 秋田延季・六代藩主 秋田定季|Web資料館|三春町歴史民俗資料館

三春藩主秋田氏7 三春藩五代藩主 秋田延季・六代藩主 秋田定季|Web資料館|三春町歴史民俗資料館

印刷

掲載している情報は記事執筆時点のものです。現状と異なる場合がありますのでご了承ください。 

Web資料館について、詳しくはこちらをご覧ください。   

Web資料館

三春藩主秋田氏 7

三春藩五代藩主 秋田延季・六代藩主 秋田定季

今回は、五代延季(のぶすえ)・六代定季(さだすえ)二人の藩主についてご紹介します。
二人はともに四代藩主頼季の子どもで、延季が享保6(1721)年、定季が享保10(1725)年頃に生まれました。

延季は、頼季の嫡子になった時に治季(はるすえ)と名乗り、その後将軍家重嫡子家治に遠慮して延季と改め、さらに隠居後に太季(たかすえ)と名乗っていますから、三春藩主中でも最も名前の多い殿様です。
家督を継いだのは寛保3(1743)年で、わずか9年の治世の後、宝暦元(1751)年に隠居し、定季に家督を譲りました。

定季は、寛延2(1749)年に延季の養子となり、宝暦元年に藩主となりました。
しかし、わずか7年の短い治世の後、宝暦7(1757)年、32歳で死去しました。

二人の藩主は、いずれも10年に満たない治世で終わっており、特に記すべき事績も残していません。
ただ、いくつかの興味深い史実がありますので、その点をご紹介します。

延季の公的な誕生年は享保3(1718)年です。
しかし、実際にはその3年後に生まれたことが確認されています。なぜこのようなことをしたのでしょうか。

江戸時代、大名に子どもが生まれた場合、それを江戸幕府へ届け出る義務が課せられていました。
これは、いずれ家督相続をしたり、どこかの大名(あるいは子ども)と結婚したりするためには、幕府に届け出た人しか許可されなかったからです。

延季は、父頼季時代のさまざまな混乱の中で誕生しました。
そのため、本当の誕生年で届け出ては、何らかの問題が発生した場合に、藩主になれないおそれがあったのです。
これが、誕生年のさば読みにつながったわけです。

もう一つは、延季の嫡男倩季(よしすえ)が宝暦元年に生まれていることから、なぜ延季が倩季の成長を待たず、弟定季に家督相続を譲ったのかという疑問です。
今のところこれに明確な回答は出ませんが、延季は安永2(1773)年まで生きていますから、病気などによる理由とは考えられません。
おそらくは何らかの理由があり、定季に家督を譲ったのでしょう。
この辺りは、今後探っていきたいと思います。
なお、延季の法名は天稟院殿令徳永顕大居士、定季は恭徳院殿仁則惟敬大居士で、ともに高乾院にお墓があります。

(2002年9月 藤井 康)

より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください

お求めの情報が十分掲載されていましたか?
ページの構成や内容、表現は分かりやすいものでしたか?
この情報をすぐに見つけることができましたか?