秋田頼季の後継者|Web資料館|三春町歴史民俗資料館
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秋田頼季の後継者
三春藩4代藩主秋田頼季は、三春藩老職荒木高村の長男として生まれました。
その後、秋田家分家の旗本秋田季豊(500石)の末期養子となり、名を季侶(すえとも)と改め、さらに三春藩3代藩主秋田輝季の養子となり、三春藩主に就任したのです。
頼季は、輝季の養子になる際、輝季の孫娘岩(輝季長男就季の娘で輝季養女)と結婚しました。
家臣出身ということもあってか、頼季は、岩との間に生まれた男子を自分の後継者にする考えだったようですが、二人の間には子どもが生まれませんでした。
そのため、享保18年11月27日、側室との間に生まれた男子民部(5代藩主延季)を嫡子としたのです。
この間の様子を「享保覚書」(個人蔵)という史料で見ると、民部を嫡子にする際、分家の旗本秋田家や、縁戚関係にある諸大名(酒井雅楽頭・伊東修理亮・秋元但馬守・安藤対馬守)に相談した上で決定されたことが分かります。
ところで、同史料によると、民部の嫡子決定に際し、頼季は民部と家臣達へ、今後もし正室との間に男子が生まれた場合は、その子を民部の嫡子として跡を継がせるよう命じています。
また、この時民部は数えの13歳(幕府への届け出年齢は16歳)だったため、成人後に再度その事を申し付けるともしています。
頼季がここまで正室岩に配慮したのは、自身の出自を配慮し、三春藩主秋田家の血統を重視したためでしょう。
結局、頼季と岩の間に子どもは誕生しませんでしたが、頼季の配慮は、江戸時代の大名がいかに血統を気にしていたかを窺わせるエピソードです。