三春の歴史こぼれ話2 田村氏の三春築城年|Web資料館|三春町歴史民俗資料館
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三春の歴史こぼれ話 2
三春城築城年
ここでは、戦国大名田村氏の三春城の築城について書きましょう。
これまで、田村氏が三春に城を築いたのは永正の子年と言われ、元年(1504)・13年(1516)のどちらの子年かははっきりしていませんでした。
この説は、青山正氏が『仙道田村荘史』の中で述べられたもので、その根拠は「田村麿旧跡物語」という史料に、「永正之子年義顕公三春鶴城江御入城云々」という記述があったためです。
ところで、資料館で一関市立図書館(現在は同市博物館)の田村家文書を調査した所、その中に「田村麿旧跡物語」を発見しました。
そこには「永正元子年義顕公三春鶴城江御入城云々」という文が記されていました。
この史料が青山氏が見たものと同じなのかどうか、また同氏がこれを読み違えたのかどうかは分かりませんが、ここには確かに永正元年と記されているのです。
しかし、この「田村麿旧跡物語」は、おそらく明治時代に書かれたもので、その信頼度は格段に落ちます。
そのため、この史料をもって、三春に田村義顕が入城したのを永正元年とするのは、かなりためらわれます。
ところが、この「物語」の原本と見られる史料が、田村氏の菩提寺福聚寺に残されていました。
福聚寺に残されている史料は表題がありませんので、便宜上「福聚寺記録」と呼んでいますが、この史料の内容は、一字一句、先の「田村麿旧跡物語」と同じです。
そして、この記録の筆者が福聚寺16世千江和尚であることから、この記録が、千江が亡くなった明暦元(1655)年以前に書かれたことが分かります。
三春城の模型
田村氏の三春入城・築城年は、「田村麿旧跡物語」では信頼度が低いのですが、「福聚寺記録」の成立年からすればある程度信頼できるようにも思います。
しかし、明治時代以前の歴史を考える上で、何年の何月何日に何があったのか、あるいは何時頃何があったのかという事は、よほど確実な史料が無い限り安易に推測する事は出来ません。
特に、田村氏が三春城を築いた戦国時代については、確実な史料が少ないので、余計に分からない事が多いのです。
永正元年説も、新たな史料の発見によって変わる可能性がありますが、現在の所判明する年次としては、妥当な年次と言えるでしょう。