三春と自由民権運動
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明治時代初めの政府は、鹿児島県・山口県など、明治維新をなしとげた地域の人々を中心とする専制政府でした。明治政府は、社会のしくみを変える改革を次々に進めましたが、多くの人々の生活は良くなりませんでした。また、当時の日本には国会・憲法がなかったため、国民の自由を守り、権利を主張する場もありませんでした。このような時代の中で、自由民権運動は、人々が国政に参加し、自由と権利を獲得することを目的としてはじまり、全国的に広がったのです。
三春町出身の河野広中(こうのひろなか)は、多くの同志たちと民権運動に参加し、三春に政治結社「三師社」、青年活動家を養成する学塾「正道館」を創設し、数多くの運動家を育てました。また、関東・東北地方では例のない政治雑誌「三陽雑誌」を発刊しました。このような活動により、三春は東北地方最大の自由民権運動の中心地となったのです。河野らの活動は、福島県内にとどまらず、わが国最初の政党「自由党」の結成には代表を送り、党の活動にも積極的に関わりました。
このような動きに対し、明治15(1882)年の秋に起こった喜多方事件を好機として、明治政府の力を背景とした福島県令三島通庸は大弾圧を強行し、河野広中・田母野秀顕ら、三春町出身者10名を含む、58名の運動家を逮捕しました。この事件は「福島事件」と呼ばれ、逮捕された人々は、国家に対する罪を犯したとして裁判にかけられました。そして、河野と田母野ら10名が有罪とされたのです。
加波山事件志士遺徳顕彰碑「自由の魁」(大町・磐州通り)
福島事件以後、自由民権運動は全国的に激化しました。福島事件により弾圧を受けた県内民権運動家は、明治17年、栃木県令に就任していた三島の暗殺を志しましたが、最終的に茨城県の加波山で挙兵決起することとしました。「加波山事件」と呼ばれるこの運動に参加したのはわずか16名でしたが、その中には河野広中の甥広体、琴田岩松ら、5名の三春町出身者がいたのです。しかし、この挙兵は失敗し、参加した16名を含む130名もの人々が逮捕されました。そして、三春出身の山口守太郎が獄死し、琴田を含む7名が死刑、河野広体ら5名が無期徒刑となるなど、多数の人が処罰されたのです。
このような運動の高まりの結果、明治政府も国会の開設、憲法の発布を検討するようになりました。明治22年、大日本帝国憲法が発布、翌年には第1回の衆議院選挙が行われ、帝国議会が成立したのです。
福島・加波山事件を通じ、多くの県内自由民権家が逮捕・処罰されました。その中で三春出身者が多数にのぼったことからも、三春町が自由民権運動に積極的に関わったとして知られるのです。
自由民権記念館
三春町は、自由民権運動発祥の地として、県内はもとより東北の民権運動をリードした多くの民権家を輩出しました。
そうした先人たちの業績を顕彰し、その精神を継承するため、町民をはじめ多くの協賛者の方々の浄財によって建設されたのが自由民権記念館です。
館内では、民権家の遺品等関係資料の展示のほか、参考図書の閲覧ができます。