田村氏は何代?|Web資料館|三春町歴史民俗資料館
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田村氏は何代?
戦国大名として三春地方を支配した田村氏について、一般的には「田村三代」と言っています。
この三代は、義顕・隆顕・清顕を指しますが、清顕が天正14(1586)年に死去した後、伊達政宗の援助で家督を相続した宗顕はなぜか含まれていません。
清顕には子どもが愛姫(めごひめ)一人しかいなかったため、清顕は、愛姫とその夫伊達政宗の間に生まれた男子が田村家を継ぐことを期待していたようです。
しかし、二人の間に子どもが生まれる前に清顕は死去し、田村家の後継ぎは決まらないままになったのです。
こうした事態の中で、清顕の正室が相馬顕胤の娘だったことから、田村領に対する影響力をめぐって、伊達氏と相馬氏がお互いに裏面で工作することとなり、また、田村家家臣も伊達派・相馬派に分かれて牽制しあう状態になったのです。
そして、相馬家の当主義胤が三春入城を図ったのに対し、田村家臣の伊達派がこれを撃退し、結局、田村家は伊達政宗の庇護下に置かれることとなったのです。
この結果、政宗は、田村家中伊達派の推挙もあり、清顕の甥宗顕を田村家家督相続者とし、ここに田村家四代宗顕が誕生したのです。
宗顕の家督相続は、このような中でなされたものですから、実質的な力はあまりなかったようです。
しかし、名目上ではあれ、田村家四代を名乗る立場に宗顕が立ったことは確かですから、田村家は、三代ではなく、四代とするのが正確と考えられるのです。
なお、宗顕を田村当主とする点は、天正18(1590)年、豊臣秀吉が小田原征伐に際して、宗顕に参陣するよう命令を出している点からも確認できます。
そして、これに応えなかったために、田村家が改易になったことはよく知られていることです。