高乾院秋田氏墓所の謎の墓|Web資料館|三春町歴史民俗資料館
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高乾院秋田氏墓所の謎の墓
平成15年度特別展「三春藩主秋田氏」開催にあたり、秋田氏の墓所について調査をしましたが、その過程で明らかになったことをご紹介します。
三春町荒町にある高乾院は、歴代藩主のほとんど眠る菩提寺であり、その家族の多くもここにお墓があります。
江戸時代、江戸の三春藩邸で亡くなった秋田氏一族は、江戸菩提寺である浅草海禅寺に葬られましたが、それらのお墓は、関東大震災後に雑司が谷霊園へ改葬され、さらに昭和10年5月26日に高乾院へ改葬されました。
そのため、藩主秋田氏一族のほとんどは、現在では高乾院に眠っているのです。
ところで、高乾院の秋田氏墓所には、これら藩主一族のものではないお墓が3基残されています。
昭和52年に町文化財に指定された際も、指定区域には入るものの、そのお墓が誰のお墓かは明らかにはされていませんでした。
このお墓には、次のような戒名等が刻まれています。
〔1〕月桂院芳質孤明大姉 文政十一戊子歳八月十六日
〔2〕本明院瑞光浄啓大姉 弘化四年丁未五月初七日
〔3〕鮮明院献珠妙心大姉 嘉永二巳酉歳七月二十二日
これらの戒名から、この3人が女性であることはすぐにわかりました。
しかし、秋田氏の系図や記録等を調査しても、これらの戒名を見つけることは出来ず、この3人が誰なのかは全くわかりませんでした。
そこで、三春藩士が公務で記した日記の抄録を調べたところ、次のような記事を見つけました。
(弘化四年)
一、五月七日、御側女中啓病気之処、養生不相叶致死去候ニ付
上ニても三日、 御遠慮被遊候
(嘉永二年七月)
一、廿二日、御側女中死去ニ付、従今日三日御遠慮被遊候
この二つの記事は、いずれも藩主のお側に仕える女中が死去し、藩主が三日の喪に服したことを示しています。
そして、没年月日から判断して、この記事が先の〔2〕〔3〕の墓石埋葬者に関わるものであると考えられます。
通常、藩主の側女中が死去しただけならば、藩主が喪に服したり、藩主菩提所にお墓を建てたりはしないでしょう。
それにも関わらず、藩主が喪に服し、藩主菩提所にお墓を建てたのは、この女性たちが、子どもを産まなかった藩主側室(厳密には側室ではありませんが)だったからではないでしょうか。
そう考えてよいならば、〔1〕の女性も同じく藩主側室のお墓と考えられるのです。