トラコーマと慈恵眼病院構想|歴民コラム|三春町歴史民俗資料館
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歴民コラム
トラコーマと慈恵眼病院構想
昔も今も、伝染病が怖いことに変わりはありません。
明治時代の日本は、海外からもたらされたと思われる病気にも苦しめられました。
福島県内で、眼病で失明する人が増え始めたのは、明治20年代ごろからでした。
感染症の一種であるトラコーマ(ドイツ語ではトラホーム、顆粒性結膜炎)は、現在では十分に防げる眼病ですが、災害や凶作により衛生・栄養状態が良くなかった当時は、最悪の場合、失明を意味する病気であったのです。
その後トラコーマは日本中で大流行し、明治42年の徴兵検査の記録では、福島県で検査を受けた若者の、実に45%がトラコーマと診断されたそうです。
国立国会図書館の河野広中文書の中には、「東北トラホーム慈恵病院設立之趣意書」が残されており、明治35年に起きた風水害後、病院に行けない人々が増え、眼病が広がる状況が訴えられているのです。
河野広中にも、専門の眼科病院設立を願う声が届けられていたことがわかります。
この請願の中心となった、三春町丈六の眼科医・市川栄枝は、治療や予防法などを、自身の著作である『虎眼撲滅策』(大正4年刊)に残しています。
トラコーマが根本的に治療できるようになったのは、戦後、抗生物質が使われるようになってからになります。
市川は著作の中で自身を慈恵眼病院院長としていますが、詳しい文書は残されていません。
この構想がどのように成立したのかを知りたいところです。
(2020年3月)
市川栄枝著『虎眼撲滅策』