河野広中伝1―生家はどこに|歴民コラム|三春町歴史民俗資料館
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歴民コラム
河野広中伝 1―生家はどこに
明治時代の初め、わき上がった自由民権運動の大きなうねりの中で、東北をまとめ、憲法制定や国会開設をともに訴えようとした人物、それが河野広中です。
嘉永2(1849)年に生れた彼は、大正12(1923)年に亡くなっており、令和4年は百回忌(没後99年)ということになります。
現在歴史民俗資料館ではこれに合わせ、令和4年の秋に特別展を行うことを予定し、準備を重ねています。
そこで今年度このコラムでは、河野の生涯のさまざまな場面を解説したいと思います。
それでは河野の生れた場所(生家)から、と紹介したいところですが、実は河野の生れた場所については諸説あり、確実なことはわかっていません。
ある時期の文書には「三春裏町143」また別の文書には「三春町大町27番地」などなど、現在とは住居表示は異なると思われますが、いつの時期にどこにいたのかを調べるだけでも大変そうです。
自由民権運動血縁の会の会長だった松本登氏の調査では、河野広中と、幼なじみの影山正博の家は、今の大町壱番館の近くに、並んであったように推定されています。
実は河野の家と影山正博の家とは裏庭を通じてつながっていたようで、幼いころから行き来をしていたといいます。
福島事件で河野が収監されたときには、影山正博は途方に暮れる河野の家族を助け、衣食に至るまで支援していました。
そうすると、河野の生れた場所は、壱番館のあたりか、その裏手側の桜川沿いではないかと考えられます。
この近くには当時、河野の師匠となる川前紫渓(かわまえしけい)の住居もありました。
河野は少年時代、かなりの腕白坊主でした。それがいかにして後年、農商務大臣・衆議院議長を務めるようになるのか、ご紹介していきます。
写真は河野広中の師匠・川前紫渓の記念碑である「百杯宴之碑」。幼いころの河野はこの近くで影山らと遊んだと思われます。
(2021年5月)
百杯宴之碑