河野広中伝3 生家・幼少期について|歴民コラム|三春町歴史民俗資料館
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歴民コラム
河野広中伝3 生家・幼少期について
河野広中の生家について、広報5月号で壱番館の近くと推測しましたが、その後荒町の内藤忠さんから、詳細な検討をいただきました。
それによると、現在松葉屋さんの駐車場になっているあたり、ということなのです。
「大町旧絵図」という図面を見ると、明治初めごろ、ここは「春山」という姓の人物の家屋となっています。
実は、河野一族は、もと春山(現田村市船引町春山)に移り住んだことから春山姓を名乗ります。
広中の祖父である広重は、この地方に来る前の「河野」を名乗って分家し、大町19番地に住んだということですから、広中誕生の地はまさにここ、と考えられるわけです。
さて、嘉永2(1849)年に生れた広中は、幼少期には大吉、青年期には信次郎と名のります。
『河野磐州伝』には、大吉少年はガキ大将で、近所の子どもたちと群れを成して遊び、意に沿わないものがいると容赦なくげんこつを食らわせたと書かれています。
そのため近所から苦情が寄せられることもよくあったようです。
広中の母・リヨは、彼を商人にしようと二本松の商家へ奉公させますが、子守も投げ出した彼に勤まるはずもなく、2年もたずに三春に帰って来てしまいます。
この頃、もとの悪童仲間は、商家の子は寺子屋で、武士の子は藩校で学問に勤しんでおり、寺子屋を破門になった大吉少年は、藩校にも入れませんでした(三春の藩校は、特定の家柄の長男などが入学した)。
転機は、儒学者・川前紫渓との出会いでした。
世に出て何かを成し遂げたいという強い意志を、暴れることで発散させていた彼を、紫渓は自らの塾に受け入れるのです。
では、広中は紫渓から何を学んだのか。それは幕末に盛んに唱えられた、あの「尊王攘夷」という思想についてなのです。
(2021年7月)
「神風当節録写」(しんぷうとうせつろくうつし)
神風当節録は紫渓の著作で、異国船を打ち払うべき、などと書かれています。
写真は河野が書写したもので、河野広中17歳当時の筆跡です。