河野広中伝5 戊辰戦争|歴民コラム|三春町歴史民俗資料館
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歴民コラム
河野広中伝5 戊辰戦争
慶応4(明治元)年7月26日昼近く、三春城下には、官軍が来たことを知らせる太鼓が鳴り響き、大変な騒ぎになりました。
三春藩の降伏は前日まで決まっておらず、ようやくこの日に成立します(無血入城は27日)。
戊辰戦争で、三春藩は奥羽越列藩同盟に参加しながら裏切ったとされますが、大火事や飢饉からようやく立ち直った町内の人々からすると、武士の都合による戦いに巻き込まれたくはなかったでしょう。
この時、官軍へ直接降伏を訴えに出向いたグループがありました。
それが、広中の兄である河野広胖・影山正博・安積儀作らでした。
彼らは、三春藩が降伏する手助けを、参謀・板垣退助らに頼もうとしたのです。
彼らはなぜ、官軍に降伏すべきと考えたのでしょうか。
その答えの一つは、広中を始めこのグループの人々が触れていた、尊王攘夷思想にあります。
この思想は、天皇を重んじ、開国を迫る外国の人々を追い出せというものです。
幕府が外国船を拒絶しないのに業を煮やし、尊王攘夷派の水戸藩士が起こした「天狗党の乱」は有名ですが、この時に水戸藩を追われ三春に隠れた人がおり、中でも野口友太郎・勝一親子は広中らの身近に匿われていたため、直接話を聞くこともあったでしょう。
その結果、天皇を奉じる官軍に従った方がいい、ということになっていくのです。
実は三春藩は、天狗党の乱の際、幕府から日光山警護を命じられ、戦闘準備もままならないほどの負担があったことが無血開城の一因となります。
そしてまた、尊王攘夷思想を産み出すもとになる水戸藩の儒学者・立原翠軒の師は、三春出身の儒学者・大内熊耳でした。
その思想は、三春藩の儒学者にも影響を与えます。
このような中で培われた人脈が、後に広中が自由民権運動に傾倒していくときに、大きな力となるのです。
(2021年9月)
戊辰戦争時に河野広中が来ていた陣羽織