河野広中伝7|歴民コラム|三春町歴史民俗資料館
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歴民コラム
河野広中伝7
明治維新後、広中はさまざまな役職を勤めますが、なかなか大きな仕事には出会えません。
明治 6 年に常葉副戸長、次いで戸長(今でいう町長のような職)をしていたころ、ミルの『自由の理』を読んで自由民権に目覚めたとされます。
これには諸説あり、『自由の理』ではなく、アメリカ独立宣言などとする説もあります。
一つの説を学んだというよりも、海外から流入した多くの考え方を学んだ結果ととらえても良いのではないでしょうか。
明治8年、頼りにしていた兄の広胖が急死し、兄に代わって広中をサポートした影山正博らと参加した地方官会議では、政治状況に不満をもつ人々との交流を得ます。
その後、戸長として入った石川町で政治結社・石陽社や学塾・石陽館を起こし、三春では明治11年に、野口勝一らと三師社を起こします。
その三師社契約書には
「社会は人衆の結合を以て成立するものなり。曰く権利、曰く義務、二者相共に並行し以て頃刻(けいこく)も離るべからず」
と高らかにうたわれており、「民主主義」を理想とする政治活動に力を入れていくようになるのです。
そのころには、頼まれて「福島県民会規則(ここでの民会は、県議会や郡・町村会などを指す)」の編成にも当っています。
野口勝一は、難解なその規則が誰にでもわかるようにと、「福島県民会規則略解」を、三春の出版事業者であった川又定蔵のもとから刊行します。
野口は水戸藩士・野口友太郎の子で、水戸天狗党の乱の後、三春に一時身を寄せていた一家の一人で、広中の幼なじみです。
お互いに補い合いながら自由民権運動へと傾倒していく二人は、後に衆議院議員としても協力することになります。
国会期成同盟への参加、わが国最初の政党である自由党の結党にも携わり、すぐさま自由党福島部・会津部の発足へと広中の足場固めは進んでいき、やがて押されて県会議員となりますが、そこで、鬼県令と言われた三島通庸との激突が起こるのです。
(2021年11月)