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河野広中の生涯その1 河野家について|歴民コラム|三春町歴史民俗資料館

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河野広中の生涯 その 1 河野家について

このコーナーでは、これまで河野広中について連載してきましたが、今月から1年間は、河野広中の生涯をたどってみたいと思います。
初回は広中の生家についてです。

河野広中は、下級武士(郷士)の子といわれています。
郷士とは一般的に、城下ではなく農村に暮らす武士のことをいいますが、三春藩の場合は、藩へ多額の寄附(献金)をして、武士の格式と土地(知行地)を与えられた者を郷士と呼んでいます。
このため、元々は武士ではない豪農や豪商出身者で、与えられる知行地は、開墾しないと価値のない荒地で、名ばかりのものでした。
広中の生誕地がはっきりしないのは、武士の名簿にも、町人の名簿にも記録されない身分だったためです。

さて河野家は、元は越智氏と称した伊予(愛媛県)河野氏の一族で、鎌倉幕府の御家人から室町時代には松山の道後温泉に近い湯築城を居城とした古い一族です。
この由緒から、広中は署名や落款などに「越智広中」と記しています。
同じように初代総理大臣である伊藤博文も「越智宿祢博文」と署名し、河野一族の末裔と称しています。
写真の扇子に描かれた「隅切り角(折敷)に三(文字)」紋が、河野氏の家紋です。
何処かで見たような気がするのは、荒町の法蔵寺かと思います。これは時宗の開祖・一遍も、伊予河野氏の出身だからです。

さて、戦国時代には瀬戸内最大規模の水軍を誇った河野氏ですが、豊臣秀吉の四国征伐で、小早川隆景に降伏し、その臣になりました。
三春の河野氏は、初代河野広易が戦国時代に春山村(田村市船引町春山)に移り、田村家に仕えたとも、江戸時代初期に加藤嘉明の会津転封に従って来訪し、主家の改易に伴って春山村で帰農したともいい、姓を春山に改めました。
その後、三春城下に移って伊賀屋と号して、町役人トップの検断や年寄を代々勤めます。

諸説ありますが、町人の戸籍である人別帳によると、文化 2 年(1805)に広中の曾祖父・春山新左衛門が郷士格を仰せ付けられ、長男の七郎兵衛ら 8 人が、人別から抜けました。
その 2 年後の文化 4 年 9 月に、七郎兵衛の弟・三郎兵衛も郷士格になります。
この時に三郎兵衛が河野広重と名乗り、河野家が再興されます。
そして、広重の娘・リヨが一族の碇屋から広可を婿に迎え、その三男が広中です。
広重は、次郎三郎という家代(番頭)を置いて、呉服商や酒造業、魚問屋など手広く商売をし、これが元手となって郷士格を得たようです。

広重の妻は、白河藩士小川三郎左衛門の娘でリキといい、才色兼備で藩主・松平定信の養母・清照院に仕え、寝食を忘れてその看病を七年間勤めたことから、河野家に宿下がりしてからも、定信に何度か拝謁し、歌を賜ったこともあるといいます。
こんなリキの娘であるリヨも歌や書に堪能な賢婦人でしたが、剛毅な性格で義を好む広可が、慈善公共のために浪費し、家財を傾けたといいます。

(2022年1月 平田禎文)

広中扇画像 広中が配った家紋入りの扇

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