河野広中の生涯 その2 少年時代の広中|歴民コラム|三春町歴史民俗資料館
印刷歴民コラムについて
三春町歴史民俗資料館より、三春町の歴史や文化、ゆかりのある人物伝、資料館に収蔵されている資料などについて、コラムをお届けします。
※掲載している情報はコラム執筆時点のものです。
歴民コラム
河野広中の生涯 その 2 少年時代の広中
今から173 年前の嘉永 2 年(1849)7月 7 日に、河野広中は誕生しました。
その晩、天井裏でイタチがしきりに「キチキチ」と鳴いたので、父・広可が吉祥として「大吉」と名付けました。
大吉少年は、三国志や太閤記、八犬伝などの軍書本を読みふけりました。
中でも織田信長と犬塚信乃に強く惹かれたため、2 人の「信」をとって「信次郎」と自称し、実直な性格だが、自由奔放なガキ大将に育ちました。
そして、7 歳の時、父の葬儀に集まった親戚から、菅谷村(滝根町)の鬼穴に悪鬼がいると聞きました。
そこで、鬼退治のために金棒が欲しいと母と兄に嘆願し、その後、鍛冶屋で「いつかこれを鍛錬しなさい」と鉄棒をもらったので、喜んで家に帰って、鬼退治の夢を語ったといいます。
また、11 歳で祖母を亡くすと、その冥福を祈るため自ら僧侶になりたいと、菩提寺の紫雲寺で持って行った小刀で髪を切りましたが、寺僧の諫めや母と兄・広胖の説得で、思いとどまりました。
その後、母と兄は大吉を商人にするため、二本松の商家に奉公に出しますが、商人は自分が志すものではないと悟った大吉は、2 年あまりで三春へ逃げ帰りました。
母と兄はその志を認め、責めることはなかったといいます。
三春に帰った大吉は、大町裏の桜川向いの修験・来光院の住職で、儒学者の川前紫渓に師事しました。
中国の古典に通じた紫渓は、大吉の将来を見込んで教え諭し、「広中」という名を与えました。
また、紫渓から尊王思想の薫陶を受けた広中は、慶応 2 年(1866)に同志と水戸へ赴こうとしますが、紫渓が『神風当節録』という書を広中に与えて留めたといいます。
そして、水戸藩の天狗党の乱後、その残党の野口友太郎と西丸帯刀兄弟が三春に入り、広中の姉が嫁いだ舟田家に潜伏したため、広胖・広中兄弟も交流しました。
野口兄弟が水戸へ発つと、同志である久貝破門から水戸の救援に誘われます。
しかし、広中が砥ぎに出していた刀の仕上がりを待ったため、久貝は広中より一日早く三春を発ち、同志と共に各地を転戦し、関宿で進退を断たれて自害しました。
一日遅れた広中は、同志と合流できず、空しく三春へ帰ったといいます。
この事件について、河野広中の公式の半生記である『河野磐州伝』では慶応 4 年の戊辰戦争初期としていますが、久貝は天狗党の乱で死亡していることから、万治元年(1864)、広中 15 歳の時です。
当時の広中は、仲間が 2 尺の刀を差せば 3 尺、3 尺の刀を差せば 3 尺 3 寸と、少しでも長い刀を志向し、そのこだわりは尋常ではなかったといいます。
(2022年2月 平田禎文)
長い刀を差した少年時代の広中