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河野広中の生涯 その3 尊王派と戊辰戦争|歴民コラム|三春町歴史民俗資料館

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歴民コラム

河野広中の生涯 その3 尊王派と戊辰戦争

慶應三年(一八六七)十月に将軍徳川慶喜が大政奉還を上奏、十二月には王政復古の政変が起き、年明けに勃発した鳥羽伏見の戦いの結果、旧幕府と会津・庄内藩等を賊軍として、追討令が出されます。

三春藩も仙台藩を頂点とする奥羽追討軍に組織され、会津征伐に加わります。
これに勢いを得た三春の尊王派郷士たちは、川前紫渓を通じて、仙台藩の尊王派と連携しました。
また、詳細は不明ですが、真田家の秘法によるという紙製の大砲二門、小銃五十挺を製造し、河野広中などは「天に二日無し、地に二王無し(太陽はひとつしかないように、王も一人である)」と記した陣羽織を準備しました。

しかし、閏四月に奥羽諸藩の家老が白石に集められ、会津藩救済嘆願書に署名し、新政府に提出しますが、却下されます。このため、会津を含めた奥羽越諸藩の相互救援同盟へと発展しました。

大勢が一変したため、三春の尊王派は幼い藩主や、後に列藩同盟の盟主に仕立てられる輪王寺宮を奪出し、官軍に投降する計画を立てますが、実行には至りませんでした。

そうしている間に、棚倉が新政府軍の手に落ちます。
そこで、尊王派から棚倉へ使節派遣が検討されますが、広中は風采が異常で人目を引くという理由で外され、兄・広胖と影山東吾らが、釜子陣屋付近(白河市東)で薩摩陣に投降しました。
そして、薩摩から長州、土佐陣へとたらい回しにされ、ようやく参謀の板垣退助が面会に応じました。
しかし、板垣は藩の決定権のある人物を連れてくるよう求めます。これを不憫に思った土佐断金隊の隊長・美正貫一郎は、広胖らを入隊させ、地図製作などに当たらせた後、三春へ帰します。

広胖は、尊王派の盟主である秋田主計らを連れて棚倉を再訪すると、白河・平を陥とした新政府軍は、三春への進軍を計画します。
その後、広中を含め三春の尊王派郷士が次々と断金隊に入隊する中、新政府軍は七月二十三日に、平、棚倉、白河の三方から軍を進めました。
これを迎え撃つために、三春城下に駐留していた同盟諸藩の軍勢は、二十六日朝まで出陣します。これで足かせがなくなったので、藩主名代の秋田主税が、貝山に滞陣する土佐陣へ投降し、無血開城を果たしました。

なお、貝山で三春攻撃を留めたのが美正だったといいますが、そのせいで美正は腰抜けだと噂されました。
そこで美正は、汚名返上しようと、翌日の阿武隈川渡河で先頭を進み、対岸から銃撃され戦死しました。
維新後、美正を慕った広中らは、美正神社を建立して供養をしました。

(2022年3月 平田禎文)

広中の羽織

写真:「天無二日 地無二王」と記された羽織

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