河野広中の生涯 その4 役人時代|歴民コラム|三春町歴史民俗資料館
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歴民コラム
河野広中の生涯 その4 役人時代
戊辰戦争後、河野家は三春藩から三人口の禄を賜りましたが、兄広胖はこれを辞退し、若松県の役人になりました。
広中は、三春藩へ藩政改革の提言や政府への建白書を何度か提出しますが、上層部から相手にされないため、各地を放浪した後、兄を頼って若松の役人になりました。
しかし、若松でも上司との関係がうまくいかず、明治三年末には三春に帰ります。
藩の捕亡取締の役につくと、元家老の細川縫之助を弾劾して失脚に追い込みますが、それが裏目に出て、自身も芦沢村の神官に左遷されました。
廃藩置県後、三春県が磐前県に編入されると、同六年二月に、磐前県第四大区小十四区(常葉)の副区長に採用されます。
そして、川又貞蔵から、JS・ミル著、中村正直訳の『自由之理』を購入し、三春から常葉への馬上で読んで、自由や権利という思想を得て、自由民権に目覚めたといわれています。
なお、この年の一月、征韓論に敗れて下野した板垣退助らが、愛国公党を結成して、民撰議院設立建白書を左院に提出し、自由民権運動が始まりました。
広中は十月に区長に進むと、新たに区会と町村会を組織し、主な事務を協議して執行しました。
そして、翌七年秋の県の区画改正で、第五大区小七区(石川町)の区長に転じ、そこで民会規則を制定し、区会と町村会による代議制を始めます。
こうした中、明治八年に東京で、府知事・県令らによる地方官会議が開催されます。
広中は盟友で磐城平の副区長だった影山正博と傍聴しますが、会議は遅延し、地方民会の協議が進まないため、広中は各地からの傍聴人を集め、審議促進を求める建言書を提出しますが、議事をまとめることなく閉幕しました。
なお、東京滞在中に広中は、板垣邸を訪ねたといいます。
石川へ帰った広中は、板垣が高知で結成した政治結社立志社を全国に広げた愛国社に加入するとともに、有志会という組織を作りました。
同九年八月に、福島県が発足すると、区会や町村会に興味を示した県大書記官の中条政恒が石川を訪れ、県の民会規則起草を依頼されます。
しかし、翌年、西南戦争が勃発し、板垣の動向を心配した広中は初めて高知を訪ね、立志社の現状を実際に見て、自由民権運動の進め方を学びました。
高知から帰った広中は、有志会を東北地方初の政治結社「石陽社」に改めました。
また、十二月に福島で仮県会が開かれると議員として出席し、十一年一月に全国に先駆けて民会規則が公布されました。
広中は県庶務課民会掛の吏員に選ばれ、福島への赴任途中で三春に立ち寄り、政治結社「三師社」を創設します。
六月には初めての福島県民会が開かれ、その成功を見て、広中は福島県を辞職しました。
(2022年4月 平田禎文)
写真:地方官会議の傍聴に上京した広中(中央)と影山正博(右)