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河野広中の生涯 その5 自由民権運動の高まり|歴民コラム|三春町歴史民俗資料館

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歴民コラムについて

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歴民コラム

河野広中の生涯 その5  自由民権運動の高まり

明治11年(1878)の福島県会発足後、県を辞した30歳の河野広中は、県内で岩磐二州会、仙台では東北有志会を立ち上げ、各地に芽吹き始めた自由民権運動の結集を図ります。
しかし、翌年(1879)2月、三春の戸長に推挙されたため、5月に辞職するまでは三春で地方自治を進めました。

戸長辞職後、再度東北有志会を開くと、10月に甥の広躰を連れて高知へ行きます。
そこで板垣退助や片岡健吉、植木枝盛らと面談すると、広躰を立志社に留学させ、大阪での第3回愛国社大会に参加しました。
そこで、広中は愛国社の東京支社を興し、その常備委員に選ばれました。そして、12月に福島に帰ると石川、三春で報告演説会を開きました。

同13年(1880)には、東日本各地へ遊説員を派遣して自由民権運動を広め、さらにそれらをまとめる東北連合会を仙台で開催しました。
こうした活動を経て、3月から大阪で開催された第4回愛国社大会は、国会期成同盟に改められました。
そして、河野と片岡健吉が2府22県の総代96名を代表して、「国会ヲ開設スル允可ヲ上願スル書」を太政官に提出しますが受理されず、元老院に提出しますが、これも却下されました。
秋になると、国会期成同盟の第2回大会が東京で開催されます。広中は愛国社の東京支社を主な活動の場とし、全国の同志のみならず、政府からも自由民権を代表する人物として知られるようになります。

同14年(1881)2月改選の福島県会議員の選挙で当選した広中は、県会の前に東北有志会を仙台で開催し、東北七州自由党盟約を決議します。
そして、4月に山吉盛典県令の元で開かれた県会で、広中は議長に選ばれました。
県会では、地方選挙に関する建議を可決して内務卿へ送るとともに、県令提出の予算や決算に異議を唱え、県会と県令の対立が始まりました。

この頃、三春に政治教育の学校・正道館が創立され、主に翻訳書により政治・法律・経済等を教授するとともに、活版印刷所を設けて『三陽雑誌』という政治雑誌を刊行しました。
さらに『福島自由新聞』を創刊し、土佐から植木枝盛を招聘して指導を受けました。

そして、北海道開拓使官有物払い下げ事件で政府がぐらついたのを契機に、国会開設の勅諭が10月に発せられます。
すると広中は、東京で板垣を総理とする自由党の創設に参画し、12月には自由党福島部も立ち上げました。
このほか、大隈重信を総理とする立憲改進党、福地源一郎ら政府よりの勢力による立憲帝政党などが設立され、明治23年の国会開設にむけて各勢力が始動しました。

(2022年5月 平田禎文)

三陽雑誌

写真:三春で出版された『三陽雑誌』

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