河野広中の生涯6 三島県令との対立と喜多方事件|歴民コラム|三春町歴史民俗資料館
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河野広中の生涯6 三島県令との対立と喜多方事件
明治14年(1881)末に、河野広中と二本松の平島松尾、浪江の刈宿仲衛、愛沢寧堅らが主体となって、自由党福島部を立ち上げました。
長屋を間借りした福島の事務所を無名館と命名し、三春の田母野秀顕や岡野知荘、相馬の岡田健長、さらに県会の書記だった花香恭次郎らが出入りし、活発な政論を交わしました。
これに対して、喜多方の赤城平六や宇田成一らは、自由党会津部を結成し、河野らとは一線を画しました。
翌15年(1882)1月には、旧薩摩藩士で山形県令の三島通庸が福島県令を兼任し、7月には福島専任になります。
自由民権運動を嫌った三島は自由党への圧力を強め、演説会や無名館が警察に監視されます。
そんな中、板垣退助が岐阜で遊説中に暴漢に襲われたため、河野は東京の自由党本部に詰める時間が多くなります。
そして、4月に三島県令の元で初めての県会を開かれますが、三島は県会を蔑視して一度も出席しなかったため、5月になると河野議長の発議で、県令が提出した議案をすべて否決する議案を議決しました。
これに対して、三島は県政を停滞させないために、内務省に議案執行を上申しました。
すると、前年に憲法私案も提出した法律通の内務卿・山田顕義は、議案の毎号否決については認めませんでしたが、三島の議案についても減額修正しました。
三島は、若松を起点として南北西三方への道路建設を計画し、早速着工しました。
自由党会津部は当初、事業に賛成していましたが、工事に地元住民が夫役に従事し、施工済の期間については、夫役代金を納めるよう求められたため、反対運動が起こりました。
そんな中、8月に河野らは無名館での活発な政治議論の過程で、「政府?覆」という文字を含めた盟約書に血判署名しました。
そして、8月18日、若松の清水屋に泊まった田母野秀顕や宇田成一らが、県令派の議員が立ちあげた日本立憲帝政党のメンバーらに襲撃され、田母野らは重傷を負いながら反対運動をしないという誓約書を書かせられました。
この頃、自由党総理の板垣退助と後藤象二郎らが、政府の援助をうけたヨーロッパ視察が計画され、河野は板垣を留めるために東京と福島を往復していて、会津での騒動には関わっていませんでした。
そして、11月20日、自由党会津部の原平蔵、三浦文治が喜多方警察署に農民の財産保護願いを提出すると、逆に拘留されたため、次々と農民たちが集結し、28日には弾正が原に集結した3千人の農民が喜多方警察署に押寄せ、喜多方事件と呼ばれる騒擾となりました。
(2022年6月 平田禎文)